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[[Image:Hitachiyama vs Umegatani and Oikaze.jpg|thumb|280px|[[常陸山谷右エ門|常陸山]](左)と[[梅ヶ谷藤太郎 (2代)|2代梅ヶ谷]](右)に[[立合い]]を指導する二十三世吉田追風(中央)]]
'''吉田司家'''(よしだつかさけ)は、現在まで[[800年]]以上の歴史を持つ、[[相撲]]の'''[[司家]]'''、[[家元]]である。
 
== 概要 ==
=== 起源 ===
[[志賀清林]]を祖とする[[志賀氏]]の断絶後、志賀氏に代々受け継がれてきた故実・伝書などを受け継いだ初代、吉田家次(吉田豊後守 ぶんごのかみ)から始まり、相撲の宗家として代々「追風」の[[号 (称号)|号]]を名乗る。元来、京都[[二条家]]に奉公し[[相撲節会|節会相撲]]の行事官として務めていた。その後、二条家の許しを受け、[[細川綱利]]に招聘され[[熊本藩]]に仕え、武家奉公をした。以来、[[熊本県]][[熊本市]]に住む。相撲に関する全権は、[[後鳥羽天皇]]より委ねられたという。
 
=== 江戸期・横綱の考案 ===
[[江戸時代]]には、勧進相撲が取り行われるようになり、19吉田追風は「[[横綱制度]]」を考案し[[1789年]]([[寛政]]元年)11月、[[谷風梶之助 (2代)|谷風梶之助]]・[[小野川喜三郎|小野川]]に[[横綱]]を免許した。
 
[[1791年]](寛政3年)および[[1794年]](寛政6年)に、11代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家斉]]の[[上覧相撲]]を奉仕し<ref>*[http://ci.nii.ac.jp/naid/110001919260/ 「寛政の上覧相撲」(1791年)の開催経緯について : 19代目吉田善左衛門の登用をめぐって]
</ref>、武家相撲の作法および[[土俵]]の登場・礼式などすべての相撲の様式を定めた。以来江戸時代を通じて、横綱免許はすべて吉田司家によって授与されていた。また、[[行司]]の最高位である[[立行司]]の免許も吉田司家が発行していた。
 
一方、[[相撲節会]]以来の司家を名乗る[[京都]]の[[五条家]]が[[1823年]]([[文政]]6年)、谷風・小野川の先例に目をつけて[[柏戸利助]]と[[玉垣額之助 (4代)]]に独自で横綱免許を与えた。これに対し20世吉田追風は先代の発案した横綱免許を五条家に奪われる危機感から、[[江戸幕府]]に対し自らの相撲指揮権について確認することを要求、[[1827年]](文政10年)7月に江戸相撲方取締を拝命、翌[[1828年]](文政11年)正月、江戸年寄一同が揃って吉田司家門弟となり、司家としての権威を固めた。同年2月には[[阿武松緑之助]]に横綱免許を与えたことにより、事実上ここに横綱が制度化した。また、[[行司]]の最高位である[[立行司]]の免許も吉田司家が発行していた。
[[1877年]]、西南戦争において23代吉田善門は[[西郷隆盛]]率いる反乱軍に従軍し戦いに敗れた後、熊本に帰り暫く謹慎していたが[[1882年]]7月東京相撲会所と交わした約款証書に基づいて梅ヶ谷藤太郎(初代)に横綱免許状を授与した。その反面、京都の[[五条家]]が相撲の家元と称し江戸末期からあちこちで横綱免許を出していたことがあった。
 
=== 横綱免許の権威として ===
[[明治維新]]の中で相撲廃止論が起こったとき、23世 吉田善門は身を挺して国技相撲を救った。そして[[1908年]]5月、九段靖国神社の拝殿に相撲協会年寄、幕内、十両以上の力士、並びに足袋免許以上の総参集を求め奮起の一渇を与え、[[1909年]]6月の両国国技館の新設に向かったのである。そして[[1925年]]8月相撲協会取締[[両國梶之助 (國岩)|出羽海梶之助]]から[[財団法人]]化申請で相談を受けていた吉田善門は要職の一部を相撲協会の外部からと助言し、同年12月[[文部大臣]][[岡田良平]]から財団法人の認証を受けた。会長には[[陸軍大将]][[福田雅太郎]]、理事長には元[[陸軍]][[主計]][[中将]]が就任した。
[[1877年]]([[明治]]10年)[[西南戦争]]において23吉田善門は[[西郷隆盛]]率いる反乱軍に従軍し戦いに敗れた後、熊本に帰り暫く謹慎していたが[[1882年]]7(明治15年)7東京相撲会所と交わした約款証書に基づいて[[梅ヶ谷藤太郎 (初代)]]に横綱免許状を授与した。その反面、京都の[[五条家による横綱免許も続いていたが、これも明治末期を境にしてなくなり、以降[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]が相撲に至るまで歴代横綱は吉田司のみによって授与されていくこ称し江戸末期からあちとなる<ref>ちでの頃と時を同じくして[[1900年]](明治33年)[[陣幕久五郎]]が[[横綱免許力士碑]]建立、はじめいたことがあっ歴代の[[横綱一覧]]を作成し際には、谷風以降の横綱は吉田司家免許のみで数えられている。</ref>
 
[[明治維新]]の中で相撲廃止論が起こったとき、23世 吉田善門は身を挺して[[国技]]相撲を救った。そして[[1908年]]5(明治41年)5月、九段[[靖国神社]]の拝殿に相撲協会[[年寄]][[幕内]][[十両]]以上の[[力士]]、並びに足袋免許以上の総参集を求め奮起の一渇を与え、[[1909年]]6(明治42年)6月の[[両国国技館#旧両国国技館|両国国技館]]の新設に向かったのである。そして[[1925年]]8([[大正]]14年)8月相撲協会取締[[両國梶之助 (國岩)|出羽海梶之助]]から[[財団法人]]化申請で相談を受けていた吉田善門は要職の一部を相撲協会の外部からと助言し、同年12月[[文部大臣]][[岡田良平]]から財団法人の認証を受けた。会長には[[陸軍大将]][[福田雅太郎]]、理事長には元[[陸軍]][[主計]][[中将]]が就任した。
一方、[[大坂相撲]]には長らく立行司免許のみを発行し横綱免許は発行していなかったが明治に入り[[若嶌權四郎]]に横綱免許を発行、[[大木戸森右エ門]]の横綱問題で1度は大坂を[[破門]]するも後に[[和解]]成立により追認、これに[[大錦大五郎]]と[[宮城山福松]]を加えた4人の吉田司家の免許を持つ公認横綱が登場した。
 
一方、[[大坂相撲]]には長らく立行司免許のみを発行し横綱免許は発行していなかったが明治に入り[[若嶌權四郎]]に横綱免許を発行、[[大木戸森右エ門]]の際には大阪協会が司家に無断で横綱問題免許状を作成したことで1度は大坂を[[破門]]するも後に[[和解]]成立により追認、これに[[大錦大五郎]]と[[宮城山福松]]を加えた4人の吉田司家の免許を持つ公認横綱が登場した。
第40代横綱[[東富士欽壹]]までは吉田司家による横綱本免許状授与式(仮免許は、司家の主君であった細川家の東京[[小石川]]の別邸で取り行われた)が続いた。しかし、司家24世[[吉田追風|追風]]長善が不祥事を起こし[[1951年]]11月に引退、当時7歳の長孝が25世を継いだが、[[日本相撲協会]]は司家代表者と協議した末、永年にわたる司家の権限を変革し、第41代横綱[[千代の山雅信]]以降は協会が自主的に横綱推挙を行なうことになり、免許権を協会に移譲し、司家は明治神宮での横綱推挙式に臨席し横綱及び故実書一巻を授与するだけとなった。しかし三役格以上の行司は熊本市の司家で行司免許を授けられてきた。
 
第40代横綱[[東富士欽壹]]までは吉田司家による横綱本免許状授与式(仮免許は、司家の主君であった[[細川氏|細川家]][[東京]]・[[小石川]]の別邸で取り行われた)が続いた。しかし、司家24世[[吉田追風|追風]]長善が不祥事を起こし[[1951年]]11([[昭和]]26年)11月に引退、当時7歳の長孝が25世を継いだが、[[日本相撲協会]]は司家代表者と協議した末、永年にわたる司家の権限を変革し、第41代横綱[[千代の山雅信]]以降は協会が自主的に横綱推挙を行なうことになり、免許権を協会に移譲し、司家は[[明治神宮]]での横綱推挙式に臨席し横綱及び故実書一巻を授与するだけとなった。しかし三役格以上の行司は熊本市の司家で行司免許を授けられてきた。
[[1986年]]5月、司家内部の不祥事により、25世吉田追風と[[栃錦清隆|春日野理事長]](当時)との会談で、吉田家の横綱授与の儀式を全面的に協会へと委ね、当面は協会との関係を中断する旨を双方了解した。
なお、[[1983年]]7月に推挙の第59代横綱[[隆の里俊英]]までは司家も推挙式に臨席し、毎年十一月場所後に司家の土俵での奉納土俵入りが行われていたが、関係中断によって1986年7月に推挙の第60代横綱[[北尾光司|双羽黒光司]]以降、司家は推挙式には臨席せず、司家土俵での土俵入りも事実上の廃止となり、行われていない。これに伴い、吉田家が[[学生横綱]]に絹手綱を授与する儀礼も中止されたまま、事実上廃止されている。
 
=== 相撲界との関係断絶 ===
また[[2008年]]には、熊本市内の司家の土地・建物も穴吹工務店([[高松市]])に売却されており、跡地には[[マンション]]が建設された。敷地内に「吉田司家跡」の[[石碑]]が存在する。
[[1986年]]5(昭和61年)5月、司家内部の不祥事により、25世吉田追風長孝と[[栃錦清隆|春日野]]理事長]](当時)との会談で、吉田家の横綱授与の儀式を全面的に協会へと委ね、当面は協会との関係を中断する旨を双方了解した。
なお、[[1983年]]7(昭和58年)7月に推挙の第59代横綱[[隆の里俊英]]までは司家も推挙式に臨席し、毎年十一月場所後に司家の土俵での奉納土俵入りが行われていたが、関係中断によって1986年7月に推挙の第60代横綱[[北尾光司|双羽黒光司]]以降、司家は推挙式には臨席せず、司家土俵での土俵入りも事実上の廃止となり、行われていくなった。これに伴い、吉田家が[[学生横綱]]に絹手綱を授与する儀礼も中止されたまま、事実上廃止されている。
 
また[[2008年]]([[平成]]20年)には、熊本市内の司家の土地・建物も穴吹工務店([[高松市]])に売却されており、跡地には[[マンション]]が建設された。敷地内に「吉田司家跡」の[[石碑]]が存在する。
 
現在、吉田司家は相撲界への復帰を目指して活動している。
 
==吉田司家に伝わる団扇や伝書等==
*吉田司家の故実によると、[[726年]]([[神亀]]3年)の禁じ手制定以前について「相撲の古法は突く殴る蹴るの三手なり」とある。
*志賀氏から受け継いだ相撲の[[故実]]・[[伝書]]や[[後鳥羽天皇]]より勅賜の「獅子王の団扇」・「[[木剣]]」・[[正親町天皇]]勅賜の「マカロウの団扇」・関白二条家晴良公下賜の「一味清風」の団扇・[[豊臣秀吉]]公下賜の「日月団扇」・[[徳川家康]]公下賜の「葡萄団扇」・仏法即相撲・相撲行司大意之巻・相撲故実書・故実例式之巻・相撲十ヶ條・式字説・秘伝書・四十八手伝立・武家相撲開口・勧進相撲云立・方屋敷云立・そりの云立・四十八手解説・相撲来歴・相撲方諸国・相撲大意之巻・相撲故実三ヶ條・相撲行司大意之巻・相撲秘伝・横綱之故実・力士心得掟書・横綱之図・歴代横綱紀起請文・横綱免許願・その他、相撲関係古文書・資料等多数。