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[[咸豊]]3年([[1853年]])、[[天津市|天津]]南郊で[[太平天国の乱|太平天国]]の[[北伐 (太平天国)|北伐軍]]を撃破した。咸豊5年([[1855年]])、[[山東省]]の馮官屯で太平天国の[[李開芳]]軍を全滅させ、李開芳を捕えた。同年には親王に封ぜられている。
 
咸豊7年([[1857年]])、[[アロー戦争]]が勃発すると天津防衛の[[欽差大臣]]に任命され、咸豊9年([[1859年]])には[[大沽]]の戦い]]で[[イギリス帝国|イギリス]]・[[フランス]]連合軍を破った。しかし翌10年([[1860年]])に天津が陥落し、彼が率いるモンゴル騎兵軍は[[通州区|通州]]に撤退した。しかも通州の[[八里橋の戦い]]で英仏連合軍に惨敗しモンゴル騎兵軍は全滅、これにより英仏連合軍は[[北京市|北京]]に侵攻し、[[円明園]]が破壊された。敗北の責任を問われセンゲリンチンは爵位を失ったが、欽差大臣の職には留り、アロー戦争が終結すると爵位も回復した。
 
同年9月、[[直隷省]]・山東省一帯で[[捻軍]]が蜂起すると掃討に当たり、山東省・[[河南省]]・[[安徽省]]を転戦した。翌11年に[[咸豊帝]]が崩御、[[同治帝]]の生母[[西太后]]らが[[辛酉政変]]を起こすとこれを支持した。同治2年([[1863年]])に[[渦陽県|雉河集]]を攻略して捻軍の首領[[張楽行]]を討ち取ったが、甥の[[張宗禹]]らが再起したため引き続き捻軍討伐に当たった。
 
センゲリンチン軍は[[苗沛霖]]軍・[[劉徳培]]率いる信和団・[[宋継鵬]]率いる文賢教・[[コウ永清|郜永清]]率いる[[白蓮教]]を壊滅させるなど、清朝の精鋭部隊であり彼自身も将士を愛する人物であったが、軍規には厳しく些細な事で提督を鞭で打ち、役人に無理やり接待された実の息子を処刑しようとしたが、諸将の取りなしによって労役刑に減刑したという<ref>薛福成「科爾沁忠親王死事略」(『清史集腋』台湾・廣文書房、1972年)。『咸豊以来功臣別伝』や『中興将帥別伝』所収の「科爾沁忠親王僧格林沁別伝」にも同様の記述がみられる。</ref>。また、敵軍を徹底的に追い詰めて容赦なく殺害したため、敵軍は民衆から略奪する間もなく逃げ回り、一方の自軍も疲弊する有様であり、『清史列伝』によれば、同治4年(1865年)4月29日には兵の疲労を理由に撤退を命じる上諭が出される程であったと記されている。
 
だが、命令は遅く5日前の24日、山東省曹州[[カ沢市|荷沢県]]の[[高楼寨の戦い]]で張宗禹・[[任柱]]・[[頼文光]]率いる捻軍に包囲され、センゲリンチンは戦死、部隊も全滅した<ref>薛福成によれば、この前日センゲリンチンは疲労から深酒をして泥酔し、敵軍の包囲に気付かなかった。彼は深く恥じ入って、部下を逃がすために自ら血路を開こうとして敵の矛に刺されて落馬したという。</ref>。同治帝と西太后はこれを深く悲しみ、政務を3日間停止し、「忠」の[[諡号]]を贈った。また、咸豊帝の廟に併せて祀り、センゲリンチンゆかりの土地全てに「忠親王廟」を建てるように命じた。
 
内外の敵に対して常に決死の覚悟で戦った彼の死は、[[アヘン戦争]]以後常に国家存亡の危機にあった清朝にとっては打撃と考えられ、清朝やこれを支持する人々は彼を神として祀って「第二のセンゲリンチン」の到来を期待した。[[臨ク県|臨朐県]]にて忠親王廟の碑文を作成した[[劉清源]]は彼を[[関羽]]・[[岳飛]]と並ぶ名将であると記している。