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[[元 (王朝)|元]]側に通じた高麗の武将であり、[[元寇]]時の高麗軍の指揮者である<ref>http://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E6%96%B9%E6%85%B6<参考文献>山口修『蒙古襲来』、旗田巍『元寇』</ref>。
 
 
== 人物・来歴 ==
=== 三別抄討伐 ===
金方慶は、[[元宗 (高麗王)|元宗]]の時代から将軍として仕えて活躍し、[[1271年]]からは[[モンゴル帝国|モンゴル]]より、[[洪茶丘]]と共に[[三別抄]](元の支配に抵抗する高麗の武装集団)の追討使を命じられ、[[珍島]]([[全羅南道]])、[[耽羅]]([[済州島]])を攻略し、軍功を挙げた。
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[[1300年]]に死去、享年88。
 
 
金方慶は、元の支配で苦しんでいた高麗を必死に助けようとした忠臣・愛国者として、今日でも韓国では高く評価されている。
== 人物 ==
金方慶は、元の支配で苦しんでいた高麗を必死に助けようとした忠臣・愛国者として、今日でも韓国では高く評価されているが、元の命令に対して服従した高麗から派遣された、いわば属国軍の現場司令官でしかなく、残存兵を見捨てる行動も行っている。
 
=== 元寇での蛮行 ===
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近代に至っても、「ムクリ・コクリ」(蒙古・高句麗)が来る、と言うと泣く子も黙ると言われたほどで、その残虐行為は壱岐・対馬・北九州の人々に、計り知れない恐怖心を植えつけた<ref>http://www.weblio.jp/content/%E3%83%A0%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%82%AF%E3%83%AA</ref>。
 
 
==脚注==