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[[File:Weng Tonghe2.jpg|thumb|翁同龢]]
'''翁 同龢'''(おう どうわ、''Weng Tonghe''、[[1830年]] - [[1904年]])は、[[清]]末の政治家・書家。'''翁同和'''とも書く。字は'''叔平'''、号は'''松禅'''。晩年は'''瓶庵居士'''と号した。[[清]]末の政治家・[[書家]]。[[翁心存]]の3男で[[翁同爵]]、[[翁同書]]の弟。[[江蘇省]][[常熟市|常熟]]出身
 
[[江蘇省]][[常熟市|常熟]]出身。の[[翁心存]]は[[咸豊]]・[[同治]]期の[[大学士]]で[[咸豊帝]]・[[恭親王]][[愛新覚羅奕キン|恭親王奕訢]]兄弟の師であった。兄の[[翁同書]][[安徽省|安徽]][[巡撫]]に至ったが[[曽国藩]]・[[李鴻章]]らに弾劾された。これにより後年、李鴻章と厳しく対立することとなった。
 
[[1856年]][[状元]]となり、[[同治帝]]と[[光緒帝]]の師を務めた。官職は工部尚書・[[軍機大臣]]・[[総理各国事務衙門]]大臣に至った。[[1873年]]の[[楊乃武と小白菜]]事件では判決に疑義をはさんだため、[[西太后]]は再審を命じた。このため事件は「両湖派」と「江浙派」の対立に発展した。
 
帝師という立場から皇帝の政治思想に深い影響を与え、[[1889年]]に光緒帝が親政を始めると[[馮桂芬]]の『校邠盧抗議』を提出し、西洋の学問の重要性と穏健な改革を説いた。[[1884年]]の[[清仏戦争]]では[[劉永福]]を支持し、[[1894年]]の[[日清戦争]]では主戦論を唱えている。光緒帝の親政と共に[[李鴻藻]]と並ぶ派閥(帝党)の領袖となり、西太后・李鴻章ら后党と対立していった。
 
変法運動が高まると、[[康有為]]を光緒帝に推薦した。しかしが、[[戊戌の変法]]の直前に西太后に迫られた光緒帝に迫って翁同龢を解任さてしまった。その後、故郷で病死した。文恭の[[諡号]]が贈られた。
[[1884年]]の[[清仏戦争]]では[[劉永福]]を支持し、[[1894年]]の[[日清戦争]]では主戦論を唱えている。
 
変法運動が高まると、[[康有為]]を光緒帝に推薦した。しかし[[戊戌の変法]]の直前に西太后は光緒帝に迫って翁同龢を解任させてしまった。その後、故郷で病死した。文恭の[[諡号]]が贈られた。
 
著作に『瓶庵詩稿』『翁文恭公日記』『翁文恭公軍機処日記』などがある。書の分野においても著名であった。晩年には書の代筆に[[趙古泥]]を起用している。
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*[[中国の書家一覧]]
 
{{先代次代|[[都察院]]漢左都御史|1878- 1879|[[徐桐]]|[[潘祖蔭]]}}
{{先代次代|[[刑部]]漢尚書|1879|[[桑春栄]]|潘祖蔭}}
{{先代次代|[[工部 (六部)|工部]]漢尚書|1879- 1885|潘祖蔭|潘祖蔭}}
{{先代次代|[[戸部 (六部)|戸部]]漢尚書|1885- 1898|[[閻敬銘]]|[[王文韶]]}}
 
{{DEFAULTSORT:おうとうわ}}