「城井朝房」の版間の差分

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ところが、天正16年([[1588年]])、朝房は和睦の条件の一つとして、[[肥後国|肥後]]で起こった国人一揆の鎮圧を命じられて、孝高に同行して出陣するが、その間に父・鎮房は長政に招かれて入った中津城で、酒宴の席で謀殺された。城井谷城も攻撃されて陥落し、祖父・[[城井長房|長房]]や家臣団も殺害された。そして朝房は、孝高の刺客によって肥後国木の葉で[[暗殺]]された。鶴姫は13人の侍女と共に磔の刑に処された<ref>吉永正春『戦国九州の女たち』(258頁-286頁)</ref>。その後肥後の国主となった加藤清正は、朝房の霊を弔うため同地の宇都宮神社に祀った<ref>吉永正春『九州戦国の武将たち』(276頁-290頁)</ref>。
 
朝房の死後、懐妊していた妻・竜子は難を逃れ、英彦山の南の宝珠山村で男子を出産。この男子は竜子の実家の[[秋月種実]]に引き取られ、[[宇都宮朝末]]と名乗りお家再興に奔走した。朝末の孫の[[宇都宮信隆|宇都宮信隆(高房)]]が元禄3年(1690年)、[[越前松平氏]]・[[松平昌親]]に召抱えられ、その子孫は越前松平家の家臣として血脈を保った。のち宇都宮家(城井家)復興運動で、大量の文書や軍記を制作したのだが、ほとんどは宇都宮家(城井家)を復興するために捏造した偽文書であるため、宇都宮家(城井家)側が作成した文書や軍記には信憑性が疑われる部分がある。なお、宇都宮家(城井家)復興運動の効も無く、宇都宮家(城井家)は大名には復帰できなかった。
 
 
== 朝房を扱った作品 ==