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== 人物 ==
[[ハイデルベルク]]で[[法学]]と[[歴史学]]を、[[ベルリン]]で自然科学と哲学を学んだ後にヘルマン・フリードマンは1897年[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]で[[博士]]学位を取得した。
 
ベルリン時代においては、ヘルマン・フリードマンは[[ルドルフ・シュタイナー]]と共に[[ジョルダーノ・ブルーノ連盟]] Giordano-Bruno-Bund<small> (名称はイタリアの哲学者・作家であった[[ジョルダーノ・ブルーノ]]に因む)</small> と[[フリードリッヒスハーゲナー会]] [[:de:Friedrichshagener Dichterkreis|Friedrichshagener Dichterkreis]] の一員であった。そこでフリードマンは[[ブルノ・ヴィレ]]と[[ヴィルヘルム・ベルシェ]]と交友関係にあった。
[[1898年]]から[[1902年]]にかけてフリードマンは[[バーゼル]]の[[弁護士]]として活躍した。[[1906年]]から[[1934年]]にかけては、[[ヘルシンキ大学]]にて[[哲学史]]の教授資格を得た[[フィンランド]]に滞在した。フリードマンはまたフィンランドの[[ソビエト連邦|ソ連]][[総督]]の顧問弁護士でもあった。
 
ヨーロッパでの政治情勢の変化からヘルマン・フリードマンは1934年に[[ロンドン]]へと居を移した。ロンドンにフリードマンは終戦してからも留まった。フリードマンはロンドンのドイツ・[[ペンクラブ]]の設立に関与し、1946年からはその代表となった。
 
1950年にヘルマン・フリードマンはハイデルベルク大学[[名誉教授]]の称号を受け、ハイデルベルク大学で[[国際法]]と[[自然法]]の教鞭を執った。1951年にフリードマンは[[ドイツペンクラブ]]の名誉会長になった。
 
またヘルマン・フリードマンは20世紀における[[ドイツ文学]]に関して数多くの著作を残している。
 
== 著作 ==
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[[Category:ドイツの哲学者]]
[[Category:ドイツの法学者]]
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[[Category:ルプレヒト・カール大学ハイデルベルクの教員]]
[[Category:ヘルシンキ大学の教員]]
[[Category:ハイデルベルク大学出身の人物]]
[[Category:ドイツ系ポーランド人]]
[[Category:ビャウィストク出身の人物]]