「有馬頼次」の版間の差分

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| 戒名 = 宗無
| 墓所 =
| 官位 = [[加賀国|加賀]]守、[[伯耆国|伯耆]]
| 主君 = [[徳川忠長]]
| 氏族 = [[摂津有馬氏]]
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| 子 = '''''[[有馬吉政|吉政]]'''''
}}
'''有馬 頼次'''(ありま よりつぐ)は、[[江戸時代]]前期の武士。[[筑後国|筑後]][[久留米藩]]主[[有馬豊氏]]の三男<ref name="kanseifu">『[[寛政重修諸家譜]]』巻第四百七十</ref>。分家して[[駿河国|駿河]][[駿府藩]]主[[徳川忠長]]に仕え、1万石を給された。
 
== 生涯 ==
[[元和 (日本)|元和]]3年(1617年)、7歳で[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川秀忠]]に初謁。翌元和4年(1618年)に[[徳川忠長]]に付けられた。その後忠長のもとで1万石を給され、寛永5年(1628年)には従五位下加賀守に叙された。しかし、寛永9年(1632年)に忠長が[[改易]]されると、頼次も勘気を蒙り、父の豊氏に預けられた。
 
寛永13年(1636年)12月10日に赦免され、寛永17年(1640年)10月15日には将軍[[徳川家光]]に拝謁している。[[慶安]]2年(1649年)3月9日、39歳で死去。麻布の[[祥雲寺 (渋谷区)|祥雲寺]](のち渋谷に移転)に葬られた。
 
== 系譜 ==
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;継嗣
*養子:[[有馬吉政]]
:[[建部光重]]の長男で<ref name="kanseifu" />、生母は[[有馬豊氏]]の養女([[有馬則氏]]の娘)<ref>『寛政重修諸家譜』巻第四百六十九</ref>。外祖父有馬豊氏の許にあり、成長後に有馬頼次の養子となる<ref name="kanseifu" />。吉政は紀州徳川家の[[徳川頼宣]]に仕え、以後代々[[紀州徳川家]]に仕えた。吉政の後は養子[[有馬義景|義景]](紀州藩家老・[[正木為永]]の子)が継いでいる。義景の子・[[有馬氏倫]]は将軍となった[[徳川吉宗]]に側衆として仕え、[[享保]]12年(1727年)には[[伊勢国|伊勢]][[伊勢西条藩|西条藩]]1万石の[[譜代大名]]に昇格した。
 
== 脚注 ==