「篠脇城」の版間の差分

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|cultural asset = 岐阜県指定史跡
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'''篠脇城'''(しのわきじょう)は、[[岐阜県]][[郡上市]]にかつて存在した[[日本の城]]([[山城]])。
== 概要 ==
この地域一帯を支配していた[[東氏]]が8代・約230年間にわたって居城とした。[[栗巣川]]左岸の標高約523メートルの[[篠脇山]]山頂にあり、北は牛道郷(現・郡上市[[白鳥町 (岐阜県)|白鳥町]])、北東は寒水(現・同市[[明宝村|明宝]])、東は小駄良(現・同市[[八幡町 (岐阜県)|八幡町]])にそれぞれ通じ、西方2キロメートル弱[[長良川]]がある要衝だった。
 
現在は岐阜県指定[[史跡]]になっている<ref>{{Cite web |date= |url=http://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku-bunka-sports/bunka-geijutsu/bunkazai-zuroku/bunkazai-zuroku/shiseki/gujyousi/sinowaki.html |title=篠脇城跡 |publisher=岐阜県 |accessdate=2012-08-04}}</ref>。北側の麓には[[東氏館跡庭園]]がある。
 
== 歴史 ==
『大和村史』によれば初代・[[東胤行]]の晩年に築城が始まり、[[14世紀]]前半の四代・[[東氏村]]のとき本格的に城が完成して移住したとされる。[[1468年]]([[応仁]]2年)には[[斎藤妙椿]]に攻められて落城したが、関東に在陣していた[[東常縁]]がこれを伝え聞いて詠んだ歌が妙椿に伝わり、贈歌10首と引換えに城を返還した、と『鎌倉大草紙』にはある。[[1471年]]([[文明_(日本)|文明]]3年)から[[1477年]](文明9年)にかけて、[[宗祇]]が篠脇城に常縁を訪ねて[[古今伝授]]を受けている。
 
[[1540年]]([[天文_(元号)|天文]]9年)に[[越前国]]から[[朝倉氏]]が来攻したが、城主・[[東常慶]]の指揮の{{要出典範囲|date=2014年9月|放射状竪[[堀]]から巨石を投下し、撃退したといわれている。しかしながらこれによって}}城自体の破損が著しく、翌[[1541年]]に朝倉氏の再来攻の際は、[[油坂峠]]で迎撃している。修復を諦めた常慶は篠脇城を修復せず、同年に八幡(現・八幡町)の赤谷山に築城して移転し、篠脇城は廃城となった。
 
後に遠藤氏が東氏の後を継ぎ、[[郡上八幡城]]を本拠としている。
 
== 構造 ==
年不詳の『篠脇城跡略図』によると、麓の東西に土井([[土塁|土居]]、中央に門口、東方に矢場、西方には[[馬場]]があったとされる。土井囲の中には東氏の館があった。現在は山麓の登り口に表門跡とされる[[礎石]]がある。また、山頂の三段の平地のうち最上段が[[本丸]]跡と推定される。城郭を囲む放射線状の30本余の[[堀|竪堀]]がこの城の特徴で、[[臼]]の目堀ともよばれる。ほとんどは現状の深さ2~3m、底幅2m、長さ10~40mで、その内2本が山麓まで達する。前述のとおり、この防御施設によって朝倉氏の来攻を撃退しているが、逆にそれが廃城の原因となった。二の丸の西北に湧水があり、城の飲料水だったと考えられる。
 
== 現地情報 ==