「徳川慶喜」の版間の差分

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昭和初期には慶喜公は死去されてます。文意に添うように修正。
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母は正室・[[吉子女王]]<ref>第3代・[[徳川家光|家光]]以来となる正室を生母とした将軍である。</ref>。幼名は'''七郎麻呂'''(しちろうまろ)<ref>「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)など一部史料では「七郎麿」との表記になっているが、慶喜自身は「七郎麻呂」と署名している。</ref>。
 
尊敬する第慶喜は、2代藩主・[[徳川光圀|光圀]]を踏襲し、に感化され子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸で教育するという斉昭の教育方針に則り、天保9(1838)年4月末(生後7ヶ月)に江戸から水戸に移り、一橋徳川家を相続するまでの多く大半をを同地で過ごす間、[[会沢正志斎]]らから学問・武術を教授された。慶喜の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家に養子には出さず、長男・[[徳川慶篤|慶篤]]の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。
 
水戸徳川家の出身ではあるが、厳密には水戸の出身ではなく後に一橋家に相続して移転することとなる。そのため後に水戸藩との関係性は薄くなり、御三家の徳川家において将軍を輩出することが無くなった(一橋家に相続したため、慶喜は一橋家からの将軍輩出者であり、御三家の水戸徳川家の出身ではないことに注意されたい)。
 
=== 一橋家相続 ===