「伊達稙宗」の版間の差分

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[[長享]]2年([[1488年]])、第13代当主・[[伊達尚宗]]の嫡男として生まれる。慣例により第11代将軍[[足利義高]](のちの義澄)から[[偏諱]]の授与を受けて'''高宗'''(たかむね、初名)と名乗った。
 
[[永正]]11年([[1514年]])、父の死去にともない家督を相続して第14代当主となる。同年、[[羽州探題]]・[[最上義定]]を[[長谷堂城]]にて破り、妹を義定の室として送り込み、実質的に[[最上氏]]を支配下に置く。永正14年([[1517年]])、第10代将軍(※11代義澄の将軍廃位後に将軍職に復帰した)[[足利義稙]]の上洛祝賀の為として多額の進物を送り、[[管領]]・[[細川高国]]を通じて一字拝領を願い出て許され、[[偏諱]]を受けて名を'''稙宗'''に改めるとともに、[[左京大夫]]に任官された<ref>なお、この偏諱・任官の申請は将軍義稙は拒否する意向であったが、高国の判断で認められ、後日両者の関係を悪化させる一因になった(浜口誠至『在京大名細川京兆家の政治史的研究』思文閣出版、2014年、P227)。</ref>。左京大夫は、元来[[奥州探題]][[大崎氏]]が世襲する官位であったが、この官位を伊達氏が獲得したことは、大崎氏に名実共に取って代わったと認めさせたことを示している。稙宗はこのようにして中央との結びつきを家格上昇に利用するとともに、[[葛西氏]]・[[岩城氏]]などと争い、これに婚姻外交を織り交ぜて勢力の急激な拡大に成功した。
 
[[永正]]17年([[1520年]])最上義定が嗣子のないまま死去すると、義定未亡人を介して伊達稙宗に影響力を行使されることを嫌った最上の諸将が反旗を翻し、伊達氏と最上氏の対立が起こる。稙宗は破竹の勢いで[[上山城]]・[[山形城]]・[[天童城]]・[[高擶城]](たかだま)を落とすと翌[[大永]]元年([[1521年]])[[寒河江氏|寒河江]]を攻める。この時伊達軍は葛西・[[相馬氏|相馬]]・岩城・[[会津]]・[[宮城郡|宮城]]・[[国分氏 (陸奥国)|国分]]・最上の軍勢を集結し、高瀬山(現・[[寒河江市]]高瀬山)から八幡原(現・寒河江市元町)にかけて陣を敷いた。一か月に及ぶ滞陣の間に伊達氏と寒河江氏の間で和議を結び、戦火を交えず伊達軍は引き上げた。この戦いにより[[最上郡]]及び[[村山郡]]南部は伊達氏の支配下に入った。