「伊藤雄之助」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
61行目:
[[1940年]]陸軍に応召、[[1943年]]に一等兵で除隊されるまでに中国大陸で兵役に就く。この時は、上官の[[大便]]が入った浴槽で入浴することを強要されるなど、ここでも冷遇を受けた<ref>『大根役者・初代文句いうの助』</ref>。その後は第2次東宝劇団に参加、[[小夜福子]]組の移動演劇隊に加わって[[山形県]]を巡業中に終戦を迎える。[[1946年]]に演劇隊を解散し、東京に戻り[[八田元夫]]の演劇研究所に入ってからは、[[スタニスラフスキー・システム]]による演技を学ぶ。
 
映画は[[1932年]]に『少年諸君』で映画デビューしているが、本格的な映画出演は戦後からで、義兄である[[佐伯清]]の薦めで[[1946年]]に東宝撮影所へ入社する。特に[[1949年]]に公開された[[黒澤明]]監督の『[[野良犬 (1949年の映画)|野良犬]]』(監督・[[黒澤明]])では、端役でありながら印象的な演技を見せた。その後[[東宝争議]]が始まったために東宝を退社。[[新東宝]]、[[綜芸プロ]]などを経て、1954年よりフリーになり、『[[プーサン]]』『気違い部落』『[[ああ爆弾]]』などで主演をつとめる。特に社会風刺喜劇の『プーサン』は、監督の[[市川崑]]ともども出世作となった。また、早い段階でフリーとなったため、[[テレビドラマ]]にも、1950年代から多くの作品へ積極的に出演した。
 
代表作に『[[巨人と玩具]]』『侍』『しとやかな獣』など。特徴のある顔とアクの強い演技で多数の映画で活躍する。『[[椿三十郎]]』では大詰めのみの出演ながらも存在感を示した。[[1968年]]6月に[[脳溢血]]で倒れ、半身不随となるも懸命なリハビリの結果、翌[[1969年]]には『[[橋のない川]]』(監督・[[今井正]])にて俳優活動を再開した。晩年も『[[太陽を盗んだ男]]』で、バスジャックして皇居に突撃しようとする犯人役を演じるなど、多数の映画・ドラマなどに出演。最後の映画出演作は、1980年公開の『戒厳令の夜』である。
 
1980年[[3月5日]]、療養で[[伊東市]]の温泉へ行くが、翌[[3月6日]]になって容態が悪化、そのまま伊東市内の病院に入院。3月11日に[[心臓発作]]により永眠。