「平賀源内」の版間の差分
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* 男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、[[歌舞伎]]役者らを贔屓にして愛したという。わけても、[[瀬川菊之丞 (2代目)|2代目瀬川菊之丞]](瀬川路考)との仲は有名である。
* 『[[解体新書]]』を翻訳した杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。玄白の回想録である『[[蘭学事始]]』は、源内との対話に一章を割いている。源内の墓碑を記したのも玄白で、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや〔貴方は常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬときぐらいは畳の上で普通に死んで欲しかった。〕)とあり、源内の才能に玄白が驚嘆しその死を惜しんだことが伺われる。
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* エレキテルの修復にあっては、その原理について源内自身はよく知らなかったにもかかわらず、修復に成功したという<ref>{{Citation | ref = none | title = 戦いの哲学勝利の条件 | author = 二宮隆雄 | publisher = PHP研究所 | year = 2008 | isbn = 9784569669915 | page = 294}}</ref>。
* 「夏バテ防止のために[[土用の丑の日]]に[[ウナギ]]を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した「本日土用丑の日」という広告[[キャッチコピー]]が元との説がある。また、[[明和]]6年([[1769年]])には[[コマーシャルソング|CMソング]]とされる、[[歯磨剤|歯磨き粉]]『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、[[安永]]4年([[1775年]])には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらをもって日本における[[コピーライター]]のはしりとも評される。
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