「胆沢城」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
画像追加、微修正。
1行目:
[[File:Isawa Castle-1.JPG|thumb|250px|right|政庁地区全景<br />{{Smaller|政庁前門前から正殿方向を望む。}}]]
'''胆沢城'''(いさわじょう/いさわのき)は、[[坂上田村麻呂陸奥国]][[802年胆沢郡]](延暦21年)に[[胆沢]](現在の[[岩手県]][[奥州市]])にった[[平安時代]]の[[城柵]]([[日本の城]])である。国の[[後三年の役史跡]]のあたりまで約150年わたって[[鎮守府 (古代)|鎮守府]]として機能したと指定されている。
 
[[坂上田村麻呂]]が[[802年]]([[延暦]]21年)に築き、[[1083年]]([[永保]]3年)の[[後三年の役]]の頃まで約150年にわたり[[鎮守府 (古代)|鎮守府]]として機能した。
== 歴史・沿革 ==
 
== 歴史・沿革 ==
[[ファイル:胆沢城跡 復元模型.JPG|thumb|200px|right|城跡復元模型<br />(奥州市埋蔵文化財調査センター展示)]]
===平安時代===
文献上の初見は『[[日本紀略]]』にあり、[[坂上田村麻呂]]が[[802年]](延暦21年)1月9日に陸奥国胆沢城を造るために征服地に派遣されたことを伝える。[[征夷大将軍]]の田村麻呂はこれにより造胆沢城使を兼任した。11日には東国の10か国、すなわち[[駿河国]]、[[甲斐国]]、[[相模国]]、[[武蔵国]]、[[上総国]]、[[下総国]]、[[常陸国]]、[[信濃国]]、[[上野国]]、[[下野国]]の浪人4000人を胆沢城に配する勅が出された。おそらくまだ建設中の4月15日に、田村麻呂は蝦夷の指導者[[アテルイ]]の降伏を報じた。
31 ⟶ 35行目:
 
== 構造 ==
[[File:Isawa Castle-2.JPG|thumb|200px|right|政庁地区<br />{{Smaller|回廊跡から東脇殿跡・正殿跡を望む。}}]]
発掘調査によれば、総面積はおよそ46万平方[[メートル]]で、外側から幅3-5メートルで深さ1-1.5メートルの堀があり、築地(ついじ)と呼ばれる高さ3.9メートルの土で固めた築地塀の内側にもまた堀をもつ、二重の堀による外郭線で囲まれている。
 
37 ⟶ 42行目:
また、正門の外郭南門(がいかくなんもん)から北に伸び、政庁前門と政庁南門の2つの門がある。
 
* 政庁 -- 儀式を行う中心施設。
* 官衙(かんが) -- 政庁のそばにある役所。
 
== 所在地 ==
55 ⟶ 60行目:
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Isawa Castle}}
* [http://www.pref.iwate.jp/ 岩手県庁]
** [http://www.bunka.pref.iwate.jp/ (岩手県庁)いわての文化情報大辞典]
60 ⟶ 66行目:
* [http://www.oshu-bunka.or.jp/maibun/index.htm 奥州市埋蔵文化財調査センター]
 
{{coord|39|10|5147.002|N|141|8|76.800|E|region:JP-03|display=title|name=胆沢城}}
{{DEFAULTSORT:いさわしよう}}
[[Category:平安時代]]