「北条高直」の版間の差分

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[[鎌倉幕府]]の[[連署]]を務めた[[北条維貞]]の子として生まれる。[[嘉暦]]2年([[1327年]])[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]の維貞の死後、家督を継いだ長兄の[[北条高宣]](翌年早世)が[[得宗]]・第14代執権の[[北条高時]]から[[偏諱]]を賜っている<ref>山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、脚注(27) (山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年、ISBN 978-4-7842-1620-8) p.182)より。詳細は[[北条氏 (大仏流)]]の項を参照のこと。</ref>ことから、弟である高直も同様に「高」の字を受けた<ref>この時期は北条高時が得宗の地位にあり、「得宗(高時)→御家人」という形で「高」の字が授与される図式が成立していた(角田朋彦 「偏諱の話」(再興中世前期勉強会会報『段かづら』三・四、2004年、p.21)。</ref>ものとみられる(「直」の字は大仏流始祖の[[北条朝直]]より取ったものか)。
 
[[後醍醐天皇]]らの討幕運動([[元弘の乱]])が起こると、幕府軍の大将の一人として各地を転戦した。鎌倉幕府滅亡頃には大仏家当主であった次兄の[[北条家時|家時]](いえとき)や三兄の[[北条貞宗|貞宗]](さだむね)とともに幕府軍を率いて[[河内国|河内]][[金剛山 (金剛山地)|金剛山]][[千早城]]に立て籠もっていた[[楠木正成]]を攻めていたが、[[足利尊氏|足利高氏]](のちの尊氏)]]の離反や[[六波羅探題]]の滅亡もあって軍は四散し、家時は[[鎌倉]]へ、高直は5月10日に残った軍勢を率いて[[奈良]]に逃れた<ref name="鎌倉・室町p542"/>。しかし、5月22日に[[新田義貞]]の鎌倉攻めにより高時や家時らが自害した([[東勝寺合戦]])ことを知ると、抗戦を諦めて6月5日に剃髪した上で高氏に降伏し、[[京都]]に幽閉された<ref name="鎌倉・室町p542"/>。
 
高氏自身は北条家と縁戚関係にあった<ref>維貞の[[外祖父]](母方の祖父)、高氏の父・[[足利貞氏|貞氏]]の外祖父がともに[[北条時茂]]であり、高氏と高直およびその兄弟は[[はとこ]]の関係にあった。</ref>ことから高直の助命を嘆願していたが、建武元年(1334年)3月9日に北条家の残党らによる[[鎌倉]]侵攻事件などがあったことから北条一族の徹底的な殲滅が強められることになり、9月9日に兄の貞宗や[[北条治時|阿曾治時]]、[[長崎高貞]]([[長崎氏]])らと共に京都阿弥陀峰で斬首に処された<ref name="鎌倉・室町p542"/>。