「水野忠直」の版間の差分

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[[万治]]2年([[1659年]])8歳で[[徳川家綱]]に謁見を許される。[[寛文]]6年([[1666年]])従五位下中務少輔となった後、寛文8年([[1668年]])「忠職」の死去により家督を継ぎ、以後45年にわたり藩主を務める。
 
[[貞享]]3年([[1686年]])、年貢1俵あたりの容量を3[[斗]]から3斗5[[升]]に引き上げる決定を行い、隣の[[諏訪藩]]・[[高遠藩]]との差が大きく生じることになり(これらの藩では2斗5升であった)、これに反発した中萱村の[[多田加助]]を主導者とする[[百姓一揆]][[貞享騒動]]が起きる。結果的に、一揆を主導した者とその家族の合わせて28名を磔および獄門により極刑に処する。獄門により処刑された人の中に加助の参謀格であった小穴善兵衛(磔刑に処さる)の娘おしゅんという16歳の少女が含まれているが、女性を処刑するのは異例。善兵衛の妻が宿していた男子まで獄門に処するようにするなど(結局病死のため獄門には処せられていない)、徹底した処罰を行った。翌4年([[1686年]])には領内に鉄砲改めを実施している
 
[[松平光長]]の改易に際して[[越後国]][[高田城]]の守備を務め、[[鳥居忠則]]の改易時には[[高遠城]]の収公にあたった。また[[宝永]]2年([[1705年]])には[[江戸]]近辺の河川工事に助力した功績をもって[[江戸幕府|幕府]]より褒賞を与えられた。