「法相宗」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
211.124.9.77 (会話) による ID:52724586 の版を取り消し
1行目:
{{Buddhism}}
'''法相宗'''(ほっそうしゅう)は、[[シナ中国]]創始の[[仏教]]の宗派の一つ。唐代、638年(貞観19年)中インドから[[玄奘]]が帰国して、ヴァスバンドゥ([[世親]]、vasubandhu)の『'''[[唯識三十頌]]'''』をダルマパーラ([[護法]]、dharmapaala)が注釈した[[唯識]]説を中心にまとめた『'''[[成唯識論]]'''』を訳出編集した。この論を中心に、『'''[[解深密経]]'''』などを所依の経論として、玄奘の弟子の慈恩大師[[基 (僧)|基]](一般に'''窺基'''と呼ぶ)が開いた宗派である。そのため、唯識宗・慈恩宗とも呼ばれる。
 
この時代の仏教宗派とは後世の宗派とは異なり、学派的なものであり、寺が固定されたり、教団となったりすることは少ない。また、基と同じ玄奘の門人である[[圓測]]の系統も広義では法相宗と呼び、門人の[[道證]]の時代に隆盛を迎えたが以後に人を得ず[[開元]]年間には基の系統に吸収されてしまった。
 
玄奘と基が唐の[[高宗 (唐)|高宗]]の厚い信任を得たことから、法相宗は一世を風靡した。しかし、その教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃く、教理体系が繁雑をきわめたこともあり、[[武則天|武周]]朝([[690年]] - [[705年]])に[[法蔵]]の[[華厳宗]]が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰え、[[安史の乱]]や[[会昌の廃仏]]によって致命的な打撃を受けた。その後、[[宋 (王朝)|宋]]・[[元 (王朝)|元]]の頃にシナ中国仏教史では、法相宗は姿を消したと考えられているが、詳細は不明である。
 
== 教義 ==