「ライカ」の版間の差分

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一眼レフカメラ化と低コスト化に乗り遅れたためやがて経営に陰りが出たエルンスト・ライツは、一眼レフカメラ開発で先行する日本の大手カメラメーカーからミノルタカメラ(現[[コニカミノルタ]])に注目、まずM型ライカの外装部品製造を依頼、このことから両社の技術者の相互出張見学を通じて親交を深めていくこととなる<ref name="clacamesenka29-76">『クラシックカメラ専科No.29、モダンクラシック』p.76-85。</ref>。それから数年経過した[[1972年]]、エルンスト・ライツはミノルタカメラとカメラの製造を目的とした両社の特許やノウハウの相互提供、技術者の相互派遣、生産設備の相互利用による生産協力等相互協力協定を結んだ<ref name="clacamesenka29-76" />。エルンスト・ライツが外国企業と提携したのは初めてのことで、この提携ニュースは日本・アメリカ・ドイツで大きく報道された。この協力関係に基づき、両社の技術者が協力してミノルタカメラの工場で設計した'''ライカCL'''を[[1973年]]9月に発表・発売に漕ぎ着け、'''ライカフレックスSL2'''をほとんどミノルタカメラで生産、'''ミノルタXE'''の基本構成を'''ライカR3'''以降に流用したりと一定の成果を上げた。その後提携は解消されたが、この技術提携によって双方の技術がその後の両社の技術開発に多大な影響を与えた。
 
しかし経営好転までには至らず、[[1973年]]のうち<ref name="clacamesenka29-76" />に、もしくは[[1974年]]<ref name="clacamesenka28-38">『クラシックカメラ専科No.28、M型ライカ図鑑』p.38。</ref>スイスの{{仮リンク|ウィルド|de|Wild Heerbrugg}}がライツ一族の株式を買い取った。エルンスト・ライツ3世は代表権を失い、[[1979年]][[9月8日]]死去した<ref name="clacamesenka29-76" />。株式の53%を取得したウィルドの傘下で「当面ライカの製造は続ける」と発表されたが、[[1974年]]に生産され[[1975年]]に販売されたライカ発売50周年記念モデルを最後にウェツラー工場での生産は途絶え、社員6500名の過半数を減員し工場も整理され<ref name="clacamesenka29-76" />、かろうじてポルトガル工場で'''ライカR3'''の製造が続けられるだけとなった。機械が搬出され倉庫が整理され競売にかけられたためにライカ発売以来一般人の目に触れることのなかった試作品等が突然流通するようになり<ref name="clacamesenka29-76" />、この混乱の中で発売された'''ライカM4-2'''の初期製品では、検査部門の存在自体疑われるような不良品が流通した<ref name="clacamesenka28-39">『クラシックカメラ専科No.28、M型ライカ図鑑』p.39。</ref>。その後はどこでライカを製造しているのかよく分からない状態が続いた<ref name="clacamesenka29-76" />。
 
=== メーカー名となったライカ ===