「松浦政 (相神浦松浦家)」の版間の差分

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'''松浦 政'''(まつら まさし、[[文明 (日本)|文明]]10年([[1478年]]) - [[明応]]7年([[1498年]]))は、[[室町時代]]後期([[戦国時代 (日本)|戦国時代]])の[[肥前国|肥前]]の武将。[[丹後国|丹後]]守。父は[[松浦定 (14代目)|松浦定]]。弟に[[松浦諌]]。子に[[松浦親 (宗金)|松浦親]]。[[大智庵城]]主。
 
父・定が没する([[延徳]]4年/[[明応]]元年([[1492年]])、或いは明応7年([[1498年]])とも)に没すると、15歳で[[松浦氏]]嫡流である相神浦松浦氏の家督を継ぎ、[[相浦|相神浦]]、[[有田町|有田]]、[[今福町|今福]]、黒島、鷹島、[[佐世保市|佐世保]]を領有した。明応3年([[1494年]])に嫡男・親が誕生した。
 
明応7年(1498年)、政は狩猟の際の諍いから、家臣の[[山田四郎左衛門]]から怨まれることとなり、出奔した四郎左衛門兄弟は、[[平戸]]の[[松浦弘定]]の元へ行き、自分達が案内者となる代わりに政の討伐を依頼した。一度、定によって自領を追われた弘定にとっても、恨みを晴らす好機であり、この申し出を了承し大智庵城攻めを決定した。[[12月]]、弘定と[[松浦興信]]父子は弘定の弟[[大野定久]]に軍を率いらせ、四郎左衛門の案内で間道から大智庵城を急襲。城は一夜で落城し、政は脱出を図るも叶わず自刃。妻と子の幸松丸(後の親)も平戸へ人質として連行され幽閉された。