「梶原政景」の版間の差分

沼尻の戦いと真壁久幹
(沼尻の戦いと真壁久幹)
佐竹義重の[[小田氏治]]討伐では小田氏治勢を破り、その功績から[[小田城]]を与えられた。以後は[[1577年]](天正5年)に、初陣の[[北条氏直]]による攻撃を受けて応戦するなど、後北条氏との戦いを繰り広げた。また、[[安房国]]の[[戦国大名]]・[[里見義頼]]や、三河国・遠江国・駿河国を領する[[徳川家康]]と連携し、北条氏の挟撃を画策するなど、反北条の活動を続けた。
 
ところが、[[1584年]](天正12年)の[[沼尻の戦い]]の最中に、突如[[後北条氏|北条氏]]に寝返ったが、父の資正の仲介により帰参している。政景が父の没後に太田氏に復帰して家督を継げなかった背景にはこの一件があったとする見方もある<ref name=kuroda/>。なお、この戦いでは岳父[[真壁久幹]]は後北条氏方についたが、合戦中に佐竹方に帰参した
 
[[1590年]](天正18年)、[[小田原征伐]]後は、佐竹氏の命令で[[植田城]]に居城を移した。翌年、父・資正が没。後には[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]にも出陣、渡海して朝鮮半島にも出兵している。[[1600年]](慶長5年)の[[関ヶ原の戦い]]の後、日和見的態度に終始して減封された佐竹氏の[[秋田藩|秋田]]転封に従うも、後に辞して[[福井藩|北ノ庄藩]]の[[結城秀康]]に2,000石で仕えた。
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