「長谷川宗仁」の版間の差分

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慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では西軍に与し、細川幽斎の篭る[[田辺城 (丹後国)|田辺城]]包囲の軍に参加していた([[田辺城の戦い]])が、戦後に所領に手を付けられる事無く赦されている。以後、豊臣家を離れ[[徳川家康]]に仕え、[[北政所]]の番を務めた。慶長11年(1606年)2月9日没。享年68。遺体は自らが[[開基]]した京の長徳寺に葬られた<ref>『[[寛政重修諸家譜]]』</ref>。
 
子の[[長谷川守知|守知]]は[[美濃国]]の[[美濃長谷川藩]]1万石の[[大名]]となっていたが、[[長谷川正尚|正尚]]は弟の[[長谷川正勝|正勝]]に3,110石を分地した為に長谷川家は大名ではなくなった。後に正尚の家系は断絶したが、正勝の家系は残り[[旗本寄合席]]に名を連ねた。
 
== 文化人として ==