「水野忠恒 (大名)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
8行目:
享保10年([[1725年]])、[[大垣藩]]主[[戸田氏長]]の養女(戸田氏定の娘)を娶り、その祝言を行なった翌日の7月28日、[[征夷大将軍]][[徳川吉宗]]に婚儀報告をするため[[江戸城]]に登城して報告を済ませる。その後、松の廊下ですれ違った[[長府藩]]世子の[[毛利師就]]に対して刃傷沙汰を起こしてしまう。忠恒は不行跡が多く、家臣に人気がないので、自分の領地が取り上げられて師就に与えられることになると思ったので切りつけたと供述したが、実際にはそのような事実は無く、乱心したとされた忠恒はその罪で改易となり、[[川越藩]]に預けられた後、叔父の[[水野忠穀]]の浜町の屋敷に蟄居し、そこで没した。享年39。
 
分家の[[若年寄]][[水野忠定]]の取り成しにより、同年8月27日、忠穀に信濃国佐久郡7000石(高野町知行所)が与えられて家名は存続している。忠穀の嫡男・[[水野忠友|忠友]]の代に大名に返り咲いている。また同時に、4代藩主[[水野忠周]]の弟[[水野忠照|忠照]]に佐久郡2000石(根々井知行所)が与えられている。
 
{{松本藩主|水野氏|6代|1723年 - 1725年}}