「ポンデザール (パリ)」の版間の差分

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{{橋
|名称=ポンデザール(芸術橋)
|画像=[[Imageファイル:Paris Pont des Arts.jpg|300px|ポンデザール]]
|国=[[フランス]]
|都市=[[パリ]]
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|建設=[[1982年|1982]]-[[1984年]]
}}
'''ポンデザール'''(仏 : {{lang|fr|Pont des Arts}})は、[[フランス]]の[[パリ]]、[[セーヌ川]]に架かる橋である。
 
ポンデザールはセーヌ川左岸の[[フランス学士院]]と右岸の[[ルーヴル宮殿]]のクール・カレ(方形宮)を結んでいる。ルーヴル宮殿は[[フランス第一帝政|第一帝政]]時代にPalais des Arts(芸術の宮殿)と呼ばれていたため、Pont des Arts(芸術橋)と名付けられたのである
'''ポンデザール'''(仏 : {{lang|fr|Pont des Arts}})は、[[フランス]]の[[パリ]]、[[セーヌ川]]に架かる橋である。
 
ポンデザールはセーヌ川左岸の[[フランス学士院]]と右岸の[[ルーヴル宮殿]]のクール・カレ(方形宮)を結んでいる。ルーヴル宮殿は[[フランス第一帝政|第一帝政]]時代にPalais des Arts(芸術の宮殿)と呼ばれていたため、Pont des Arts(芸術橋)と名付けられたのである。
 
== 歴史 ==
ポンデザールの歴史は[[1802年]]まで遡る。1802年から[[1804年]]にかけて現在の橋の位置に9連アーチの[[鋼鉄]]製の歩道橋がパリで初めての金属製の橋として架けられた。第一統領、[[ナポレオン・ボナパルト]]の命令によるものだった。設計はルイ・アレクサンドル・セザールが担当し、周囲の景観にふさわしい橋として建設された。[[1852年]]にはコンティ通りを拡幅するために左岸の2つのアーチが1つのアーチに変更された。
 
[[1976年]]、土木局により橋が脆弱になっていることが報告された。[[1918年]]と[[1944年]]の2回の爆撃と、[[1961年]]と[[1970年]]に起こった船の衝突が原因だった。そのため1977年に橋は閉鎖され、1979年に船が衝突したときに60mにわたって崩壊した。現在の橋はその後[[1982年]]から[[1984年]]にかけて架けられたものである。新しい橋のデザインは旧ポンデザールに似せて造られたが、隣の[[ポンヌフ]](7連アーチ橋)に合わせてアーチの数が9から7に減らされている。1984年[[6月27日]]、パリ市長だった[[ジャック・シラク]]によって除幕された。
[[Imageファイル:Pont-des-arts.jpg|thumb|right|朝のポンデザール]]
 
== 愛の南京錠 ==
[[ファイル:Paris Pont des Arts upstream rive gauche close-up.jpg|thumb|無数に取り付けられた「愛の南京錠」、2012年。]]
2008年頃より、恋人同士が永遠の愛を誓い、[[南京錠]]に二人の名前を書いて欄干の金網に取り付けて鍵をかけ、その鍵をセーヌ川に投げ込む「カデナ ダムール([[愛の南京錠]])」が流行した<ref>{{Cite web |author=[[中村江里子]]|date=2014-06-10|url=http://www.asahi.com/and_M/living/SDI2014060980221.html|title=アムールの国の“愛の南京錠”|publisher=[[朝日新聞デジタル]]「&amp;」|accessdate=2014-06-16}}</ref>。錠前の重さは橋全体で50トンを超えるとの試算もあり、2014年6月には欄干の金網の一部が崩れて橋が一時閉鎖される事態になった<ref>{{Cite news |title=愛が重すぎて…パリの橋壊れる 恋人たちが無数の南京錠|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2014-06-14|url=http://www.asahi.com/articles/ASG6D15JZG6CUHBI036.html|accessdate=2014-06-16}}</ref>。このため、パリ市当局は、南京錠が取り付けられないように、欄干の金網をアクリル板に置き換えることを決定している<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3026662?pid= パリ市が「愛の南京錠」対策、金網撤去しアクリル板に 写真4枚 国際ニュース] AFPBB News、2014年9月22日</ref>。
 
== 京都市の芸術橋計画問題 ==