「カール・バルト」の版間の差分

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[[新プロテスタント主義]]から神学的影響を受け、[[新カント学派]]から哲学的影響を受ける。牧会に従事しながら聖書の中に証されている言葉を、具体的な人間に対して神の言葉として聞かせるべき、牧師の説教の課題として注釈と宣教の革新が必要であるとした。特に、シュライアマハーによって基礎が据えられ、[[アルブレヒト・リッチュル]]によって修正され、[[アドルフ・フォン・ハルナック]]の時代に[[エルンスト・トレルチ]]によってその頂点に達した文化プロテスタント主義([[自由主義神学|近代主義神学]]。彼は最初期はこれに帰依していた)に対して猛烈な攻撃を仕掛け、神学のテーマが人間学に解消しているとして、神学の本来のテーマを回復しようとし、「言における神の啓示」(『[[新約聖書]]』「[[ヨハネによる福音書]]」冒頭)を主張した。その神学は彼の著書『ロマ書講義』や『福音主義神学』、『教会教義学』という膨大な著書において記されている。
 
彼の思想の変遷を表す著書として『ロマ書』において神という一般的抽象的言葉を用いたのに反して、『教会教義学』前半では、特に倫理問題を扱うにあたり、「神」よりも「イエス・キリスト」という言葉を多く用いるようになり、キリスト論に彼の神学が集中していった(「キリスト論的集中」)。教父たちから神学思想を引き出しつつ、そこに革命的な新しさを与え、体系を立てた。ただし「キリスト論的集中」は彼の晩年の思想とは異なり、キリストを通じての神啓示が教会を越えて起こる可能性に言及した『教会教義学』最終巻 (IV/3, § 69) などでは[[三位一体]]の第三位格である[[聖霊]]に注目している。未完の『教会教義学』(''Kirchliche Dogmatik'', [[1932年]] - [[1968年]])は、9,000ページを超える大著であるが、これが未完である事情は単に年齢の問題だけではなく、晩年の書簡の以下のような表現にもうかがわれる。「私がもしもう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい」​{{要出典}}​また彼は敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになった。​{{要出典}}​したがって、彼は晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言えるのである。​{{要出典}}​
 
この関連で、[[エミール・ブルンナー]]との自然神学論争において彼が主張した「人間にはもはや『神の像』なし」という主張もまた再検討されうる。神認識がキリストの契機なしには起こらないという点ではブルンナーとバルトは主張を同じくするが、ブルンナーが主張した「人間における結合点」とは人間において聖霊の力が働いて神を認識することを言っているからである。彼はまさに近代の神学的課題やジレンマを一手に引き受けたと評価される。
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彼はプロテスタント神学においては、ティリッヒおよび[[ルドルフ・ブルトマン]]と並ぶ20世紀を代表する神学者と位置づけられている。教皇[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]をして「今世紀(20世紀)最大のプロテスタントの神学者」と言わしめた。[[プラトン主義]]的な宗教論を提唱したイギリスの神学者、[[C・S・ルイス]]とも論争を行った。その思想は[[マルティン・ハイデッガー]]、また日本では[[西田幾多郎]]、[[滝沢克己]]に影響を与えており、数々の著作集・説教集の邦訳が刊行されている。
 
かつては[[ジャン・カルヴァン]]以来最大の改革派[[プロテスタント]]神学者と称され、その影響力は世界の教会に及び、[[カール・マルクス]]、[[カール・ヤスパース]]と共に20世紀の思潮を決定付けた3つのKという人もいた{{誰|date=2013年6月}}。ヤスパースは、戦後バーゼル大学でバルトと同僚でもあった。ただし、[[2006年]]に行われた[[2006 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]にちなんだ「20世紀に影響を残す神学者」のランキングではまったくノミネートされず、ヨーロッパ圏における評価の変遷がはっきりした格好になった。
 
スコットランドを除くアングロ・サクソン圏内では、バルト理解はようやく緒についた。[[ジェフリー・ブロミリー]] ([[:en:Geoffrey W. Bromiley|Geoffrey W. Bromiley]])、また[[トーマス・トーランス]]などの働きはこれに貢献した。バルト主義は、哲学上の[[経験論]]・[[懐疑論]]と対話することがアカデミズムで求められているという課題をなお負っているという指摘もある{{誰2|date=2013年6月}}。