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{{政治家
'''天野 公義'''(あまの きみよし、[[1921年]][[3月2日]] – [[1990年]][[7月29日]])は、日本の[[政治家]]。元[[自治大臣]]。戦前に[[衆議院議員]]を務めた[[天野頼義]]([[立憲政友会]]所属)は父。
|人名 = 天野 公義
|各国語表記 =
|画像 =
|画像説明 =
|国略称 = {{JPN}}
|生年月日 = [[1921年]][[3月2日]]
|出生地 = {{JPN1889}}, [[東京府]][[北豊島郡]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1921|3|2|1990|3|5}}
|死没地 = {{JPN}}, 東京都[[文京区]]
|出身校 = [[東京大学|東京帝国大学 / 東京大学]]
|所属政党 =
|称号・勲章 =
|親族(政治家) =
|配偶者 =
|サイン =
|国旗 =
|職名 = [[自治大臣]]兼[[国家公安委員会委員長]]兼[[北海道開発庁長官]]
|内閣 = [[三木内閣改造内閣]]
|当選回数 =
|就任日 = 1976年9月15日
|退任日 = 1976年12月14日
}}
'''天野 公義'''(あまの きみよし、[[1921年]][[3月2日]] – [[1990年]][[7月29日]])は、日本の[[政治家]]。[[自治大臣]]兼[[国家公安委員会委員長]]兼[[北海道開発庁長官]]などを歴任した。戦前に[[衆議院議員]]を務めた[[天野頼義]]([[立憲政友会]]所属)は父。
 
== 来歴・人物 ==
[[東京府]][[北豊島郡]][[日暮里町]](現在の[[東京都]][[荒川区]])生まれ。[[府立高等学校 (旧制)|旧制府立高校]]を経て、[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京帝国大学文学部]]に入学。在学中は[[東京大学運動会ア式蹴球部|ア式蹴球部]](サッカー部)に入部。1941年には同部の主将を務めて<ref name="a760916"> 「三木改造内閣 新任閣僚の横顔」[[朝日新聞]]、1976年9月16日、2014年10月3日閲覧</ref><ref name="lb3">「{{PDFlink|[http://www.lbsoccer.org/History/HistoryTable.pdf 東大ア式蹴球部の歴史]}}」2014年10月3日閲覧</ref>、[[関東大学サッカーリーグ戦|関東大学リーグ]]で優勝も経験した。また、倫理学科では[[和辻哲郎]]の門下生であった<ref name="a900208"/>。
現在の[[東京都]][[荒川区]]生まれ。[[府立高等学校 (旧制) |府立高校]]を経て、[[東京大学|東京帝国大学]]文学部倫理学科、法学部をそれぞれ卒業後、[[同盟通信社]]の記者となる。戦後は[[1946年]]・[[1947年]]と総選挙に出馬するが落選し、[[吉田茂]]首相秘書官を経て、[[1949年]]の[[第24回衆議院議員総選挙]]に[[民主自由党 (日本)|民主自由党]]公認で旧[[東京都第6区 (中選挙区)|東京6区]]から初当選を果たす(当選同期に[[佐藤栄作]]・[[橋本龍伍]]・[[小渕光平]]・[[麻生太賀吉]]・[[福永健司]]・[[塚原俊郎]]・[[藤枝泉介]]・[[稲葉修]]・[[河本敏夫]]・[[森山欽司]]・[[床次徳二]]・[[有田喜一]]など)。以後当選11回だが、落選は7回。
 
卒業後に[[同盟通信社]]の記者となったが、戦後の[[1946年]]・[[1947年]]と総選挙に立候補して共に落選。[[吉田茂]]の首相秘書官の傍ら、[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]に在籍した<ref name="a900208"> 「これだけはやりたい 主な候補者に聞く」[[朝日新聞]]、1990年2月8日、2014年10月3日閲覧</ref>。
保守合同後は[[宏池会]]([[池田勇人]]→[[前尾繁三郎]]→[[大平正芳]]→[[鈴木善幸]]→[[宮澤喜一]]派)に所属する。文部、大蔵の各政務次官を経て、[[1976年]][[三木内閣改造内閣]]で自治大臣兼[[国家公安委員会委員長]]兼[[北海道開発庁長官]]として初入閣するが、同年に行われた総選挙で、現職閣僚でありながら落選し話題となった。大都市部の保守系議員の宿命というべきか、元々選挙のたびに苦戦を強いられていた。[[1989年]]予算案の与党単独採決に抗議して[[河野洋平]]、[[鯨岡兵輔]]らと共に本会議欠席。1990年の総選挙で落選後、政界を引退。同年7月29日急性[[心不全]]のため死去。[[享年]]69。
 
現在の[[東京都]][[荒川区]]生まれ。[[府立高等学校 (旧制) |府立高校]]を経て、[[東京大学|東京帝国大学]]文学部倫理学科、法学部をそれぞれ卒業後、[[同盟通信社]]の記者となる。戦後は[[1946年]]・[[1947年]]と総選挙に出馬するが落選し、[[吉田茂]]首相秘書官を経て、[[1949年]]の[[第24回衆議院議員総選挙]]に[[民主自由党 (日本)|民主自由党]]公認で[[東京都第6区 (中選挙区)|東京6区]](当時)から初当選を果たす(当選同期に[[佐藤栄作]]・[[橋本龍伍]]・[[小渕光平]]・[[麻生太賀吉]]・[[福永健司]]・[[塚原俊郎]]・[[藤枝泉介]]・[[稲葉修]]・[[河本敏夫]]・[[森山欽司]]・[[床次徳二]]・[[有田喜一]]など)。以後当選11回だが、落選は7回。
 
保守合同後は[[宏池会]]([[池田勇人]]→[[前尾繁三郎]]→[[大平正芳]]→[[鈴木善幸]]→[[宮澤喜一]]派)に所属する。文部、大蔵の各[[政務次官]]を経て、[[1976年]][[三木内閣改造内閣]]で自治大臣兼[[国家公安委員会委員長]]兼[[北海道開発庁長官]]として初入閣するが、同年に行われた総選挙で、現職閣僚でありながら落選し話題となった。大都市部の保守系議員の宿命というべきか、元々選挙のたびに苦戦を強いられていた。[[1989年]]予算案の与党単独採決に抗議して[[河野洋平]]、[[鯨岡兵輔]]らと共に本会議欠席。1990年の総選挙で落選後、政界を引退。同年7月29日急性[[心不全]]のめ死去。[[享年]]69
 
[[1990年]][[7月29日]]、[[東京都]][[文京区]]の[[順天堂大学医学部附属順天堂医院]]で急性[[心不全]]により死去した<ref name="a750212">「天野公義氏 死去」 [[朝日新聞]]、1990年7月30日、2014年10月3日閲覧</ref>。1990年9月11日、[[自由民主党]]葬が[[青山葬儀所]]で行われた<ref>「故天野公義氏の党葬」 [[読売新聞]]、1990年8月13日、2014年10月3日閲覧</ref>
 
==脚注==
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<references />
 
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