ホーム
おまかせ表示
付近
ログイン
設定
寄付
ウィキペディアについて
免責事項
検索
「小田島雄志」の版間の差分
言語
ウォッチリストに追加
編集
履歴の双方向閲覧
← 古い編集
新しい編集 →
削除された内容
追加された内容
ビジュアル
ウィキテキスト
2014年8月11日 (月) 10:22時点における版
編集
116.80.13.48
(
会話
)
→生い立ち
← 古い編集
2014年10月3日 (金) 10:39時点における版
編集
取り消し
二林史夫
(
会話
|
投稿記録
)
1,984
回編集
m
リンクの設定
新しい編集 →
7行目:
ソ満国境を超えてソ連軍南下の報に8月14日新京から奉天へ一時避難したが、父興三の判断で満州国首都の新京へ後戻り15日夕刻新京に着いて終戦を知った。
終戦の翌年9月、葫蘆島(ころとう)から博多へ
[[
引
き
揚
げ]]
、列車で東京へ。広島を通るときは窓が目隠しされたという。
引揚直後は鶴見の親戚に仮寓。大森中4年に編入。