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== 生涯 ==
寛延3年(1750年)1月27日、第6代藩主[[朽木綱貞]]の長男として江戸で生まれ、そこで育った。[[安永]]5年(1776([[1776]])11月22日、[[朽木舖綱]]の養子となる。安永6年3([[1777年]])3月19日、将軍[[徳川家治]]に拝謁する。安永9年12([[1780年]])12月18日、従五位下隠岐守に叙任する。[[天明]]7年([[1787年]])11月22日、舖綱の死去により[[家督]]を継ぐ。
 
13歳頃から和漢の[[古銭]]収集が趣味で、特にこのことから「古銭家の王者」と称された。古銭収集の風は、1750昌綱が少時代を過ごした[[宝暦]]年間の頃には大阪・江戸でもはやっ流行していた。彼は[[ヨーロッパ]]諸国の貨幣をも収集した。また20歳の頃には世界地理の研究を志す。安永元年(1772([[1772]])23歳の頃、[[蘭学]]の[[前野良沢]]に入門する。同門に[[杉田玄白]]、[[中川淳庵]]、[[桂川甫周]]らがおり、後に[[大槻玄沢]]や[[司馬江漢]]らが入門してくる。その中で[[オランダ語]]による地理書の研究が始まった。昌綱はオランダ商館長([[カピタン]])のイザーク・ティツィングとも交友あり、洋書やヨーロッパの銭貨の入手でも援助してもらう。オランダ語は文通できるくらいに上達した。1780年(安永9年(1780年)頃からオランダ通詞の荒井庄十郎を助手にし、世界地理研究をした。38歳で藩主となったとしに『西洋銭譜』を刊行する。<ref>岡田俊裕 2011年 167ページ</ref>。これは、17~18世紀のヨーロッパの貨幣を、克明な図入りで紹介するという、当時としては画期的なものであった
 
著作も多く、『[[蘭学階梯]]』の序文や『泰西輿地図説』、『古今泉貨鑑』、『新撰銭譜撰』12巻、『良貨分量考』など、多くの貴重な著作を残した。また[[蘭学]]研究に熱心であり、[[前述の通り前野良沢]]に弟子入りし、[[大槻玄沢]]ら蘭学者や[[オランダ]]商館長([[カピタン]])と交を持った。義兄である[[松平治郷|松平不昧]]の[[茶道]]の弟子にもなるなど、文人としても名を馳せた。しかし、政治家としては二流だったといわれる。一説には進み過ぎた才能ゆえに公儀が避けたともいわれる。
 
寛政12年([[1800年]])閏4月9日、家督を養子の[[朽木倫綱|倫綱]]に譲って隠居する。剃髪して、近江入道と称した。江戸に戻り、享和2年(1802年)4月17日に死去した。享年53。