「ベンガル太守」の版間の差分

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{{基礎情報 過去の国
[[File:Coat of Arms of Nawabs of Bengal.PNG|thumb|right|ベンガル太守の紋章]]
|略名 =
[[File:Murshidabad.gif|200px|thumb|right|ベンガル太守の居城]]
|日本語国名 = ベンガル太守<br>ムルシダーバード太守
[[File:1776 Rennell - Dury Wall Map of Bihar and Bengal, India - Geographicus - BaharBengal-dury-1776.jpg|thumb|300px|right|ベンガル太守の支配領域地図]]
|公式国名 =Nawab of Bengal<br>Nawab of Murshidabad
'''ベンガル太守'''(ベンガルたいしゅ、英語:Nawab of Bengal)は、[[ムガル帝国]]の東[[インド]]、[[ベンガル地方]](現在の[[バングラデシュ]]と[[西ベンガル州]]、[[ビハール州|ビハール]]の一部を指す)の地方長官、つまり太守([[ナワーブ]])のことである。[[18世紀]]には、ビハール地方の大部分、[[オリッサ|オリッサ地方]]も支配した。首府は[[ダッカ]]、[[ムルシダーバード]]、[[ムンガー]]。
|建国時期 = [[1717年]]
|亡国時期 = [[1947年]]
|先代1 = ムガル帝国
|先旗1 = Flag of the Mughal Empire.svg
|次代1 =英領インド
|次旗1 = Flag of Imperial India.svg
|次代2 =インド共和国
|次旗2 = Flag of India.svg
|次代3 =パキスタン
|次旗3 = Flag of Pakistan.svg
|国旗画像 =
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|国旗縁 = <!-- no と入力すると画像に縁が付かない年 -->
|国章画像 = Coat of Arms of Nawabs of Bengal.PNG
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|国歌 =
|国歌追記 =
|位置画像 = 1776 Rennell - Dury Wall Map of Bihar and Bengal, India - Geographicus - BaharBengal-dury-1776.jpg
|位置画像説明 = ベンガル太守の支配領域<br>([[ビハール]]、[[オリッサ]]含む)
|位置画像幅 =
|公用語 = [[ウルドゥー語]]、[[ペルシア語]]、[[ベンガリー語]]、[[ヒンディー語]]、[[英語]]
|首都 = [[ダッカ]]、[[ムンガー]]、[[ムルシダーバード]]
|元首等肩書 = [[ナワーブ]]
|元首等年代始1 = [[1717年]]
|元首等年代終1 = [[1727年]]]
|元首等氏名1 = [[ムルシド・クリー・ハーン]]
|元首等年代始2 = [[1756年]]
|元首等年代終2 = [[1757年]]
|元首等氏名2=[[ シラージュ・ウッダウラ]]
|元首等年代始3 = [[1760年]]
|元首等年代終3 = [[1763年]]
|元首等氏名3= [[ミール・カーシム]]
|元首等年代始4 = [[1830年]]
|元首等年代終4 = [[1880年]]
|元首等氏名4 = [[マンスール・アリー・ハーン]]
|首相等肩書 =
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|面積測定時期1 =
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|人口測定時期1 = 7500万人
|人口値1 = [[1901年]]
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|変遷1 = [[ムルシド・クリー・ハーン]]が太守となる
|変遷年月日1 = [[1717年]]
|変遷2 = [[プラッシーの戦い]]
|変遷年月日2 = [[1757年]]
|変遷3=[[ブクサールの戦い]]
|変遷年月日3= [[1764年]]
|変遷4= ベンガル太守の廃止
|変遷年月日4 [[1880年]]
|変遷5= ムルシダーバード太守となる
|変遷年月日5= [[1882年]]
|通貨 = [[ルピー]]
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|国際電話番号追記 =
|注記 =
}}
'''ベンガル太守'''(ベンガルたいしゅ、[[ベンガリー語]]:বাংলা ও মুর্শিদাবাদের নবাবগণ, [[英語]]:Nawab of Bengal)は、[[ムガル帝国]]の東[[インド]]、[[ベンガル地方]](現在の[[バングラデシュ]]と[[西ベンガル州]])の地方長官、つまり太守([[ナワーブ]])のことである。[[1880年]]にベンガル太守の称号は廃止され、[[1882年]]からは'''ムルシダーバード太守'''(Nawab of Murshidabad)となった。首府は[[ダッカ]]、[[ムルシダーバード]]、[[ムンガー]]。
 
ベンガル太守はベンガルのほか、[[ビハール]]、[[オリッサ]]の両州も管轄した。そのため、'''ベンガル、ビハール、オリッサの太守'''あるいは'''ベンガル総督'''とも呼ばれる。ビハール、オリッサの両州に関してはベンガル太守が兼任する場合もあれば、別に太守が立てられる場合もあった。
==設置==
 
[[File:Map of Bengal.svg|thumb|250px|right|ベンガル太守の支配領域]]
==歴史==
ベンガル太守の役職は、[[ムガル帝国]]の[[アクバル]]の治世、[[1576年]]に[[ベンガル地方]]を支配していた[[ベンガル・スルタン朝]]を滅ぼすとともに設置された。
===設置===
ベンガル太守の役職は、[[ムガル帝国]]の[[アクバル]]の治世、[[1576年]]に[[ベンガル地方]]を支配していた[[ベンガル・スルターン朝]]を滅ぼすとともに設置された。
 
それ以来、ベンガル太守はムガル帝国の一州を統治する地方長官として、皇帝の任命のもと、[[ダッカ]]を首府にこの地を支配した。
 
===ムルシド・クリー・ハーンの活躍と独立===
==ベンガル地方政権==
===[[File:Murshid Quli Jafar Khan.jpg|thumb|200px|right|[[ムルシド・クリー・ハーンの活躍===]]]]
[[18世紀]]初頭、ムガル帝国が衰退すると、ベンガル太守は地方政権化した。
[[File:Murshid Quli Jafar Khan.jpg|thumb|250px|right|ムルシド・クリー・ハーン]]
地方政権の祖である[[ムルシド・クリー・ハーン]]の経歴を見ると、彼はもともと[[イラン人]]貴族の奴隷だったが、皇帝[[アウラングゼーブ]]に歳入改善などの実績を認められ、抜擢された人物だった<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid2.htm Murshidabad 2]</ref><ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.72</ref>。
[[ファイル:Portrait of the Emperor Farrukh Siyar, 1715.jpg|thumb|right|250px|ファッルフシヤル]]
 
[[1690年]]代にベンガルに深刻な反乱が起きると、[[1697年]]にアウラングゼーブは孫の[[アズィーム・ウッシャーン]]を新たなベンガル太守とし、ムルシド・クリー・ハーンを補佐役とした。その後、[[1698年]]にアズィーム・ウッシャーンは反乱を鎮圧すると、アウラングゼーブの息子ら同様、いずれ争われるだろう帝位を狙うようになり、彼はベンガルにおいてさまざま手段で不正蓄財を企てるようになった<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.71</ref>。
ベンガル地方政権の祖である[[ムルシド・クリー・ハーン]]の経歴を見ると、彼はもともと[[イラン人]]貴族の奴隷だったが、ムガル皇帝[[アウラングゼーブ]]に実力を認められ、その部下となった人物だった。
 
そのため、清廉潔白なムルシド・クリー・ハーンは、太守の不正蓄財をやめさせるべく苦慮することとなり、[[1700年]]頃からベンガルにおいて改革を行った。彼はベンガルにおける余剰金をほかの地方に回させないようにしたり、古い[[ザミーンダール]]を新興の自作農に変えたり、期限内に徴税、納税できないザミーンダールを厳罰に処し、逆に義務を果たすザミーンダールを優遇したりした<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、pp.71-72</ref>。
[[1690年]]代、ベンガルに深刻な反乱が起きると、アウラングゼーブは孫の[[アズィーム・ウッシャーン]]を新たなベンガル太守とし、ムルシド・クリー・ハーンを補佐役とした。
 
そのうち、ムルシド・クリー・ハーンのほうが政治的手腕に優れていることが分かり、アウラングゼーブの了承を得て彼がベンガルを取り仕切るようになった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.244-245</ref>。また、[[1704年]]には、ベンガルの行政府があったダッカから[[ムルシダーバード]]へと遷都している<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.72</ref>。
その後、[[1698年]]にアズィーム・ウッシャーンは反乱を鎮圧すると、アウラングゼーブの息子ら同様、いずれ争われるだろう帝位を狙うようになり、彼はベンガルにおいてさまざま手段で不正蓄財を企てるようになった。
 
[[1712年]]、皇帝[[バハードゥル・シャー1世]]の死後、その次男であったアズィーム・ウッシャーンは皇位継承戦争で戦いに敗れて殺害された<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.249</ref>。戦争後、皇帝となった[[ジャハーンダール・シャー]]は悪政により人望を失い、アズィーム・ウッシャーンの遺児[[ファッルフシヤル]]はジャハーンダール・シャーを討つためベンガルを出陣し、[[1713年]]にジャハーンダール・シャーを討ち皇帝となった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.249-250</ref>。
そのため、清廉潔白なムルシド・クリー・ハーンは、太守の不正蓄財をやめさせるべく苦慮することとなり、[[1700年]]頃からベンガルにおいて改革を行い、古い[[ザミーンダール]]を新興の自作農に変えたり、期限内に徴税、納税できないザミーンダールを厳罰に処し、逆に義務を果たすザミーンダールを優遇したりした。
 
[[1717年]]、ムルシド・クリー・ハーンは皇帝ファッルフシヤルより、正式にベンガル太守に任命された。しかし、同年にファッルフシヤルは[[イギリス東インド会社]]に対し、ベンガルにおける[[関税]]の免除特権(会社員の私貿易は含まれない)をあたえる勅令を出し、これはのちに地方政権との間で大きな問題となった<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、pp.61-62</ref>。このとき与えられた免除特権では、イギリス東インド会社は関税なしで自由に物産を輸出入することができ、こうした物産の移動に対するスタッグと呼ばれる自由通関券する権利も与えられていた<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、pp.61-62</ref>。この免除特権は太守の税収の減少を意味し、また自由通関券を発行する権利は会社社員が私貿易の税を免除するのに利用され、以降太守らとの摩擦につながった<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.62</ref>。
そのうち、ムルシド・クリー・ハーンのほうが政治的手腕に優れていることが分かり、アウラングゼーブの了承を得て彼がベンガルを取り仕切るようになり、[[1704年]]には、ベンガルの行政府があったダッカから、ムルシダーバードへと遷都している。
 
[[1724年]]、ムガル帝国の宰相[[ミール・カマルッディーン・ハーン|アーサフ・ジャー]](ニザームル・ムルク)が[[デカン]]の[[ハイダラーバード]]で独立し、[[アワド太守]]の[[サアーダト・アリー・ハーン]]も[[アワド]]で独立して王朝を樹立するなど、ムガル帝国の広大な領土の解体は徐々に進んでいった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.253</ref>。
[[1707年]]、皇帝アウラングゼーブが死ぬと、帝国では反乱が相次ぎ、これ以降帝国は衰運を歩むようになった。
 
[[1727年]][[6月30日]]、ムルシド・クリー・ハーンが死ぬと、指名を受けていた孫のサルファラーズ・ハーンが太守位を継承した<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid2.htm Murshidabad 2]</ref>。だが、その父で娘婿[[シュジャー・ウッディーン・ムハンマド・ハーン]]はこれに反対し、翌月に太守位を譲らせた<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid2.htm Murshidabad 2]</ref>。
[[1712年]]、皇帝[[バハードゥル・シャー1世]]の死後、その次男であったベンガル太守アズィーム・ウッシャーンは皇位継承戦争に参加するためベンガルから出陣したが、戦いに敗れて殺害された。
 
戦争後、皇帝となった[[ジャハーンダール・シャー]]は悪政により人望を失い、アズィーム・ウッシャーンの遺児[[ファッルフシヤル]]はジャハーンダール・シャーを討つためベンガルを出陣し、[[1713年]]にジャハーンダール・シャーを討ち皇帝となった。
 
だが、ムルシド・クリー・ハーンはムガル帝国に対し、一応ベンガル地方の税収は払っており、[[1717年]]に皇帝ファッルフ・シヤルより、正式にベンガル太守(在位1717 - 1727)に任命された。
 
しかし、同年、ファッルフシヤルはイギリスに対し、ベンガルにおける[[関税]]の免除特権をあたえる勅令を出し、これはのちに地方政権との間で大きな問題となった。
 
===独立===
[[1724年]]、ムガル帝国の宰相[[ミール・カマルッディーン|アーサフ・ジャー]](ニザーム・アルムルク)が[[デカン]]の[[ハイダラーバード]]で独立し、[[アワド太守]]の[[サーダット・アリー・ハーン1世|サーダット・アリー・ハーン]]も[[アワド]]で独立し、王朝を樹立するなど、ムガル帝国の広大な領土の解体は徐々に進んで言った。
 
[[1727年]][[6月30日]]、ムルシド・クリー・ハーンが死ぬと、その娘婿で後継者[[シュジャー・ウッディーン・ムハンマド・ハーン]](在位1727 - 1739)とムガル帝国に対し先代が律儀に払っていたベンガル地方の税収の納入を拒否し、ベンガルは実質的に独立した(ベンガル地方政権)。
 
同年、シュジャー・ウッディーン・ムハンマド・ハーンは先代が律儀に帝国へ払っていたベンガル地方の税収の納入を拒否し、ベンガルは実質的に独立して世襲王朝となったた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.253</ref>。
ベンガルの独立はムガル帝国に打撃を与え、この豊かなベンガルからの収入が途絶えた帝国はますます財政難となった。
 
===アリーヴァルディー・ハーンの太守位強奪治世===
[[File:Alivardi Khan.jpg|thumb|200px|right|[[アリーヴァルディー・ハーン]]]]
[[1739年]][[8月]][[26日]]、シュジャー・ウッディーン・ムハンマド・ハーンが死ぬと、その息子[[サルファラーズ・ハーン]]が新たな太守となった<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid2.htm Murshidabad 2]</ref>。だが、父の副官だった[[アリーヴァルディー・ハーン]]は太守位を狙うようになり、[[1740年]][[3月]]に反旗を翻した。
 
[[1739]][[84月26日]]、シュジャサルファラウッハーンとアリーヴァルディーン・ムハンマド・ハーンが死ぬとの両軍はベンガル地方息子小村[[ギリヤー]]で激突した([[ギリヤーの戦い]])<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid2.htm Murshidabad 2]</ref>。だが、サルファラーズ・ハーンは武将[[アーラム・チャンド]](在位1739 - 1740)が新たな太守とな裏切られて敗れ、殺されてしまったが、その部下[[後、アリーヴァルディー・ハーン]]太守位を狙うようになりムガル帝国の皇帝[[1740年]][[3月ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)|ムハンマド・シャー]]に反旗を翻しより、新たなベンガル太守に任命された。
 
[[1741]][[4329日]]、サルファラーズ・ハーンと太守アリーヴァルディー・ハーンの両軍、ベンガル地方の小村攻め込んできた隣国[[ッサ]]で激突しに勝ち、その領土を奪っ。だが、敗れた[[オリッルファラーズ・ハーンは武将太守]]の[[アーラルスタム・ャン]]裏切らはこて敗れ(に対し、[[ギリアマラーター同盟]]戦い[[ボーンスレー家 (ナーグプル)|ボーンスレー家]])、殺されに援助を求めた。
 
これによりマラーターはベンガルへと侵攻し、豊かなこの地方の物資を略奪しはじめたが、アリーヴァルディー・ハーンは初期の侵攻はなんとか食い止めた。だが、マラーターはこのベンガル略奪に味をしめ、ベンガルそのものが滅ばない程度に、毎年ベンガルのあらゆる場所へ、何度も何度も略奪を繰り返すようになった([[マラーターのベンガル遠征]])。
その後、アリー・ヴァルディー・ハーンは、ムガル帝国の皇帝[[ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)|ムハンマド・シャー]]により、新たなベンガル太守(在位1740 - 1756)に任命された。
 
その後、[[1751年]][[5月]]、ベンガル太守アリーヴァルディー・ハーンはマラーターと講和し、10年にも及ぶ略奪に終止符を打った<ref>[http://nagpur.nic.in/gazetteer/gaz1966/final_gazettee/his1.html Nagpur District Gazetteer]</ref>だが、その条約ではベンガルはスバルナレーカー以遠の[[オリッサ]]の領土割譲を約したばかりか、ベンガルとオリッサの両州から毎年[[チャウタ]](諸税の四分の一を徴収する権利)を支払うことなども約束させられた<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.75</ref><ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.216</ref>。
この点からすると、ベンガル地方政権はムガル帝国の主権を認めていたことになる。
 
[[17世紀]]後半以降、[[イギリス]]と[[フランス]]はインド各地に拠点を築き、そのうちの一つであったベンガルでは、[[18世紀]]になるとそれぞれの拠点で睨み合っていた。とくにイギリスはマラーターの襲撃に乗じ、そのさなかに[[ウィリアム要塞]]の強化に乗り出した。
===マラーターの略奪と国力の疲弊===
[[File:Allavardi Xán.jpg|thumb|250px|right|アリー・ヴァルディー・ハーン]]
[[Image:Fortwilliamplan2.jpg|right|250px|thumb|Plan (top-view) of Fort William, c. 1844|ウィリアム要塞]]
 
しかし、アリーヴァルディー・ハーンはイギリスなどヨーロッパ諸国の貿易活動によってベンガルの経済が支えられていることを知っており、ベンガルにこれ以上要塞を建設しないことを条件にこれらの貿易活動を認めていた<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.75</ref>。彼はまた、衰退の一途たどっていたムガル帝国がもはやイギリス、フランスを強制するだけの力がないことを理解していた<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、pp.75-76</ref>。
[[1741年]][[3月3日]]、太守アリー・ヴァルディー・ハーンは、攻め込んできた隣国[[オリッサ]]に勝ちその領土を奪ったが、敗れた[[オリッサ太守]]の[[ルスタム・ジャング]]は、[[マラーター同盟]]の[[ボーンスレー家]]に援助を求めた。
 
===シラージュ・ウッダウラの反英闘争とプラッシーの戦い===
これにより、マラーターはベンガルへと侵攻し、豊かなこの地方の物資を略奪しはじめたが、アリー・ヴァルディー・ハーンは初期の侵攻をなんとか食い止めた。だが、マラーターはこのベンガル略奪に味をしめ、ベンガルそのものが滅ばない程度に、毎年ベンガルのあらゆる場所へ、何度も何度も略奪を繰り返すようになった。
[[Image:Siraj ud-Daulah.jpg|200px|thumb|right|[[シラージュ・ウッダウラ]]]]
[[1756年]][[4月1日]]、アリー・ヴァルディー・ハーンが死亡したことにより、孫の[[シラージュ・ウッダウラ]]が太守位を継承した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.82</ref><ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid5.htm Murshidabad 5]</ref>。だが、その継承をめぐって深刻な後継者争いが起きた。
 
即位後、シラージュ・ウッダウラは自分に敵対するガシティー・ベーグムに味方した[[ダッカ]]市長[[フサイン・クリー・ハーン]]を殺害した。ガシティー・ベーグムは後任の市長に[[ラージャ・ラージ・バラフ]]を任命しため、シラージュ・ウッダウラはラージャ・ラージ・バラフが[[公金]]を[[横領]]したとして、その邸宅をおさえ彼を逮捕したが、息子の[[クリシュナ・ダース]]はイギリスのカルカッタに逃げ込んだ。
その後、[[1751年]]、ベンガル太守アリー・ヴァルディー・ハーンはマラーターと講和し、10年にも及ぶ略奪に終止符を打ったものの、ベンガルはオリッサをはじめとする領土を、マラーターに大きく割譲させられ、多額の賠償金も払わされ、今後はマラーターの軍事費として毎年120万ルピー払うことも約束させられた。
 
その際、シラージュ・ウッダウラはフランスに対抗するためイギリスが行ってきたカルカッタのウィリアム要塞の強化増築に不服であり、イギリス東インド会社の職員が行ってきた勝手な私貿易はベンガル経済に大きな打撃を与えていると抗議し、イギリスに対してただちにこれらの中止をイギリスに要求した。1717年の勅令に関しては、ムルシド・クリー・ハーンからアリーヴァルディー・ハーンまですべての太守がイギリスの解釈に異議を唱え、会社社員の私貿易における自由通関券の悪用を厳しき取り締まったが、社員らは隙を見つけては悪用していた<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.62</ref>。
また、この略奪自体がベンガルの国力を大きく削り、この10年に及んだマラーターの略奪とその戦後賠償は、ベンガルをすっかり疲弊させた。
 
だが、イギリスはシラージュ・ウッダウラの使者を追い返して、その要求を無視してこれらを続行したばかりか、クリシュナ・ダースの引き渡しも拒否した。同年[[5月]]、シラージュ・ウッダウラは敵対者である従兄弟[[シャウカト・ジャング]]の討伐のため進軍中だったが、その道中にこのイギリスの返答を聞き激怒し、イギリス人をベンガルから追い出すことを決定した。
そして、[[17世紀]]以降、[[イギリス]]と[[フランス]]はインド各地に拠点を築き、そのうちの一つであったベンガルの弱体化に目をつけ、[[18世紀]]にこの地で激しく争うことになった。
 
同年[[6月]]、[[シラージュ・ウッダウラ]]はフランスの支持を受けてカルカッタを攻め、ウィリアム要塞を包囲し、[[6月19日]]に占領した。その夜にイギリス兵捕虜146名がウィリアム要塞内の「ブラックホール」と名づけられた小さな牢獄に収容され、結果123名が窒息死する事件が起こった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.270</ref>。これは、シラージュ・ウッダウラの部下がウィリアム要塞やこの牢獄を知らなかったから起ったことであり、必ずしも計画して行われたものではないが、イギリス人は「[[ブラックホール事件]]」、「ブラックホールの悲劇」として語り継いだ。その後、シラージュ・ウッダウラはイギリスの工場を破壊しモスクを建て、カルカッタをアリーナガルと改名した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.84</ref>。
すでに、[[1740年]]代、[[イギリス東インド会社]]は、[[フランス東インド会社]]への対抗として[[カルカッタ]]の[[ウィリアム要塞]]の強化、増築を行っており、[[1744年]]には南インドで第1次[[カーナティック戦争]]が勃発し、双方が次にベンガルでの覇権を争うことは必至であった。
 
さらに、同年[[10月]]半ば、シラージュ・ウッダウラは勢いに乗じ,従兄弟シャウカト・ジャングの軍を戦闘で破り殺害した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.84</ref>。シラージュ・ウッダウラは一連の勝利でその威信を高めたが、従来にも増してさらに傲慢になり、宮廷ではその打倒の陰謀が企てられた。彼らはシラージュ・ウッダウラから軍総司令官[[ミール・ジャアファル]]へと太守を代えるため、イギリスと結んで計画を進め<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.84</ref><ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.64</ref>。
しかし、アリー・ヴァルディー・ハーンは、イギリスとフランスの貿易活動により、疲弊していたベンガルの経済が支えられていることを知っており、ベンガルにこれ以上要塞を建設しないことを条件に、これらの貿易活動を認めていた。
 
ところが、同年[[12月]]半ば、イギリスの軍司令官[[ロバート・クライヴ]]がマドラスに到着した。 [[1757年]][[1月2日]]に彼はカルカッタを奪還し、シラージュ・ウッダウラに対して宣戦を布告した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.84</ref>。
アリー・ヴァルディー・ハーンは、衰退の一途たどっていたムガル帝国が、イギリス、フランスを強制するだけの軍事力がないことを理解しており、彼自身は、
 
同年[[2月]]、シラージュ・ウッダウラはイギリスと、[[フーグリー]]で和平交渉を始めたが決着がつかず、クライヴは和平交渉の印象を残し宿舎に帰った。だが、クライヴはベンガル軍に対し夜襲をかけ、不意を突かれたシラージュ・ウッダウラの軍勢は大混乱ののち四散した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.84</ref>。このとき、イギリスと内通していたミール・ジャアファルら側近がシラージュ・ウッダウラに対して講和を強く勧め、彼は休戦協定([[アリーナガル条約]])に調印した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.85</ref>。
{{cquote|'''「蜂蜜を利用できる蜂も、巣に手を突っ込めば逆に刺し殺されることがある。」'''}}
 
また、同年[[3月]]イギリスは、フランスのベンガルにおける拠点[[シャンデルナゴル]]に対し猛攻を加え、耐え切れなくなったフランスは降伏し、フランスはベンガルにおける重要な拠点を失った<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.85</ref>。だが、シラージュ・ウッダウラは彼のもとに逃亡したフランス人を保護し、イギリスの引き渡し要求に応じなかったため再び対立が生じた<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.85</ref>。
と家臣に言い聞かせたとされる。
 
[[File:Clive.jpg|thumb|right|300px|[[プラッシーの戦い]]ののち、[[ロバート・クライヴ]]と面会する[[ミール・ジャアファル]]]]
===ベンガル太守の後継者争い===
一方、[[6月4日]]、イギリスは内通していたミール・ジャアファルとの間に条約を結び、シラージュ・ウッダウラ打倒後の太守位を約束された<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.85</ref><ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.270</ref>。その条約では、シラージュ・ウッダウラのカルカッタ攻撃で被った損害の賠償として1000万ルピーの支払い、カルカッタの南[[カールピー]]までの地がイギリスの[[ザミーンダーリー]]に置かれ、他のザミーンダールと同様の方法でその租税を太守に納入することなどが定められた<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.85</ref><ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.270</ref>。シラージュ・ウッダウラはそのころになってようやく自分の周りを取り巻く陰謀に気づき、ミール・ジャアファルに懸念を伝えに行ったが、ミール・ジャアファルは上手くごまかしたため、ともにカルカッタ近郊の[[プラッシー (インド)|プラッシー]]へと向かった<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、pp.85-86</ref>。
[[Image:Siraj ud-Daulah.jpg|250px|thumb|right|シラージュ・ウッダウラ]]
 
[[6月23日]]、シラージュ・ウッダウラ率いる大軍はロバート・クライヴの率いる少数の軍勢とプラッシーで激突した([[プラッシーの戦い]])。だが、軍勢の大部分を率いてたミール・ジャアファルはイギリスとの条約で非協力を約束していたため、戦いを傍観するだけであった。シラージュ・ウッダウラは戦いに敗れて逃げ、ミール・ジャアファルは公然とクライヴと合流し、勝利の祝意を述べた<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.87</ref>。
[[1756年]][[4月1日]]、アリー・ヴァルディー・ハーンが死亡したことにより、ベンガル地方政権では深刻な後継者争いが起きた。
 
そして、同月末、ミール・ジャアファルはムルシダーバードに入城し、新たなベンガル太守となった。一方、シラージュ・ウッダウラは逃げきれずに捕えられ、[[7月4日]]に殺害され、その遺体は首都ムルシダーバードへと運ばれた<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid4.htm Murshidabad 4]</ref>。
アリー・ヴァルディー・ハーンの死後、若く気性の激しいその孫[[シラージュ・ウッダウラ]](在位1756 - 1757)がベンガル太守となったが、その後継をめぐって、彼には三人の敵対者がいた。
 
===ミール・ジャアファルの憂い===
1人目は、アリー・ヴァルディー・ハーンの長女で、シラージュ・ウッダウラの叔母[[ガシティー・ベーグム]]であり、そのベンガル太守の後継を不適任だとし、彼女はシラージュ・ウッダウラの敵対者になりそうな者に金をばらまき、ダッカの彼女の邸宅はその陰謀の中心となっていた。
[[File:Ja'afar Ali Khan.jpg|thumb|right|200px|ミール・ジャアファル]]
プラッシーの戦いののち、ミール・ジャアファルは新太守となったが、同時に事前に結ばれていた条約が発効した。彼はイギリス東インド会社に約束されていた地域のザミーンダーリーを与えたほか、2250万[[ルピー]]、会社役員には580万ルピーをしはらうことなったが、そのほかにもクライヴをはじめ会社職員が贈り物や賄賂を要求したため、支払いは結果的に3000万ルピーを越えるものとなった<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.88</ref><ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.65</ref>。また、イギリスにベンガル、ビハール、オリッサにおける自由交易権を与え、私貿易での関税を無税にした<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.65</ref>。
 
この支払はベンガルの財政を破綻させ、ミール・ジャアファルは支払いのためザミーンダールから容赦なく取り立て、彼らからは反抗を受けることとなり、一部はイギリスに保護を求めるありさまだった<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.88</ref>。そのため、やりきれなくなったミール・ジャアファルは、[[酒]]や[[ハーレム]]浸りとなり、遂には麻薬まで手を出すようになった<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.88</ref>。
2人目は、同じくアリー・ヴァルディー・ハーンの孫で、シラージュ・ウッダウラの従兄弟[[ショーカット・ジャング]]で、彼はシラージュ・ウッダウラがアリー・ヴァルディー・ハーンの三女の子であるのに対し、次女の子である自分のほうがベンガル太守の継承権があると主張した。
 
このベンガルの状況に対し、[[1760年]]にマラーターがベンガル領内に侵攻してきたが、ミール・ジャアファルの要請で出動したイギリス軍によって追い払われ、また家臣[[ハーディム・フサイン]]が反乱を起こしたが、これもイギリスによって鎮圧された<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、pp.88-89</ref>。もはや、ベンガルはイギリスの援助なしでは1日として存続できないようになっていた<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.89</ref>。
3人目は、ベンガル軍の総司令官で、シラージュ・ウッダウラの叔父[[ミール・ジャーファル]]であり、彼はシラージュ・ウッダウラに一応味方していたが、アリー・ヴァルディー・ハーンの従兄弟を妻にしていたことから、内心は自分がベンガル太守になろうと画策していた。
 
同年、ベンガル知事となっていたクライヴは帰国し、新たに[[ヘンリー・ヴァンシタート]]が引き継いだ<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.90</ref>。彼はミール・ジャアファルに巨額の支払いを続ける変わりに[[チッタゴン]]の収租権をイギリス東インド会社に授与するよう提案したが、彼は同意しなかった<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.90</ref>。
イギリス、フランスがこの後継者争いに目を付けないはずがなく、フランス側はベンガル太守シラージュ・ウッダウラに味方し、イギリス側はシラージュ・ウッダウラにとりあえず味方していた叔父のミール・ジャーファルに、ベンガル太守の位を持ちかけ内通し、太守側の内訌を狙う作戦を計画した。また、イギリスは、シラージュ・ウッダウラに味方していたベンガルの大商人[[アミー・チャンド]]、ベンガル一の金融業者[[ジャガット・セート]]に内通していた。
 
そこで、ヴァンシタートは首都ムルシダーダーバードの宮殿にいたミール・ジャアファルに退位を迫ったが、彼は頑として受け入れようとしなかった<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、pp.90-91</ref>。だが、交渉が行われている間にベンガル軍が反乱を起こしたため、[[3月]]にミール・ジャアファルは退位を余儀なくされた<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.91</ref>。
しかし、双方とも自分たちが足場を築き、マラーターが略奪をほしいままにして、すっかり国力が弱体化したうえ、後継者争いが起こったベンガルを侵略しようとしていたことは言うまでもない。
 
===ベンガル太守シラジュウッダウラカーシムの反英闘争===
[[File:Blackhole1908Mir Qasim.jpg|thumb|200px|ウィリアム要塞のブラックホright|[[ミール牢獄・カーシム]]]]
同月、イギリスはミール・ジャアファルの後任として、ミール・ジャアファルの娘婿である[[ミール・カーシム]]を新たなベンガル太守に任命した<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid8.htm Murshidabad 8]</ref>。このミール・カーシムという人物は才覚と強い意志を持つ人物であった。以前から義父ミール・ジャアファルの政治を補佐しており、その在任中に頻発した反乱をなだめて鎮圧するなど、イギリス側からも注目されていた人物でもあった<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.90</ref>。
[[File:Black Hole Calcutta memorial 3.jpg|thumb|ブラックホール事件の追悼碑]]
[[画像:Robert-clive.png|thumb|200px|ロバート・クライブ]]
 
だが、ミール・カーシムも自分をベンガル太守に擁立する代償にイギリスと秘密協定を交わしており、チッタゴン、[[ミドナープル]]、[[バルダマーン]]の収租権を授与することのほか、ヴァンシタートに50万ルピー、イギリス東インド会社の高官に175万ルピー、イギリス東インド会社に150万ルピー、あわせて総額325万ルピーの支払いを約束していた<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.91</ref><ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.272</ref>。そのため、ミール・カーシムは、様々な名目でその費用をザミーンダールから徴収し、支払わない者は財産を没収するなど強権的な態度に出たが、長年徴収されてばかりいたザミーンダールらの反感を買い、一部のザミーンダールは反乱まで起こした<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.91</ref>。
即位後、シラージュ・ウッダウラは、ガシティー・ベーグムに味方した[[ダッカ]]市長[[フセイン・クリー・ハーン]]を殺害し、ガシティー・ベーグムは後任の市長に[[ラージャ・ラージ・バラフ]]を任命していた。そのため、シラージュ・ウッダウラは、ラージャ・ラージ・バラフが[[公金]]を[[横領]]したとして、その邸宅をおさえ彼を逮捕したが、息子の[[クリシュナ・ダース]]はイギリスのカルカッタに逃げ込んだ。
 
こうなると、ミール・カーシムは、だんだんとイギリスの支配から独立したいと思うようになるのも無理はなかった<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.91</ref>。彼はヨーロッパ人の軍事教官を雇い入れ、兵器も最新のものにするなどベンガル軍の改革に乗り出した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.91</ref>。首都をムルシダーバードからビハールの[[ムンガー]]に移転し、イギリスから軍の強化を悟られないようにした<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.91</ref>。
ベンガル太守シラージュ・ウッダウラは、イギリスが行ってきたカルカッタのウィリアム要塞の強化増築に不服であり、イギリス東インド会社及びその職員が行ってきた勝手な私貿易は、ベンガル経済に大きな打撃を与えていると抗議し、イギリスに対してただちにこれらの中止をイギリスに要求した。また、クリシュナ・ダースの引き渡しを要求した
 
さらに、ミール・カーシムはベンガル軍の改革の成果をみるため、国境を接する隣国[[ネパール]]に密かに侵攻した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.91</ref>。一応、ネパール軍を破ったが、[[ゲリラ]]の抵抗が強く領土を保持できず、占領地からは撤退した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、pp.91-92</ref>。無論、これら一連の出来事は、ミール・カーシムとイギリスとの関係を悪化させた。
しかし、イギリスは彼の使者を追い返して、その要求を無視してこれらを続行し、クリシュナ・ダースの引き渡しも拒否した。
 
また、問題となっていたのはこれだけではなく、1717年の勅令に基づいて行われていた、イギリス東インド会社社員による私貿易の関税も問題であった<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.92</ref>。1717年にイギリスが皇帝ファッルフシヤルから与えられたベンガルにおける関税の免除特権は、「船によって国に輸入され、もしくは国から輸出される品物について、会社の封印のある許可状を提示したもののみ関税を免除される」というものだった<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.92</ref>。
同年[[5月]]、シラージュ・ウッダウラは従兄弟ショーカット・ジャングの討伐のため進軍中だったが、その道中にこのイギリスの返答を聞き激怒し、イギリス人をベンガルから追い出すことを決定した。
 
だが、イギリス東インド会社の職員はプラッシーの戦い以降、勅許の内容を勝手に広く解釈し、彼らはすべての私貿易と広範な品物の取引が無税であると主張するようにったた。のため、[[1761年]][[12月]]にミール・カーシムはイギリス東インド会社の社員によるすべて私貿易について、その税を支払うようイギリス東インド会社へと通達した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.92</ref>。しかし、イギリス東インド会社の高官も私貿易をおこなっており、ベンガル側の人間も賄賂を受け取り見逃がしたためほとんど効果がなかった。
まず、シラージュ・ウッダウラは手始めに首都ムルシダーバードのイギリス工場を襲い、工場長などを捕虜にし、同年[[6月]]半ば、[[シラージュ・ウッダウラ]]はフランスの支持を受けてカルカッタを攻撃し占領、イギリス人をカルカッタから追放した。
 
また、[[1762年]]にミール・カーシムはイギリスが様々な方法でベンガルの人々を苦しめているとを、イギリスのインド人代理に不正があったことを併せてイギリスに抗議した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.93</ref>。たとえば、地元商人にイギリスの商品を扱わせなかったり、イギリスが徴税権を持つ土地において地元農民から農作物を4分の1の値段で強制的に買い上げたリする代わり、自分たちからは高く買わせ、違反者に厳しい対応をとるというものであった<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.93</ref>。だが、イギリス側はこれらの要求を無視し続けたため、ミール・カーシムとイギリスの関係はさらに悪化した。
その後、カルカッタのウィリアム要塞を包囲し軍15000、象軍500、50門の大砲で攻め続け、ベンガル軍の総司令官[[ドレーク]]は逃げ、副司令官[[ホルウェル]]と要塞の兵は降伏したが、その夜、イギリス兵捕虜146名がウィリアム要塞内の「ブラックホール」と名づけられた小さな牢獄に収容され、結果123名が窒息死する事件が起こった。
 
[[1763年]][[2月]]、ミール・カーシムは関税問題の解決策として、地元商人だけが不利にならぬよう、すべての商品関税を無税にさせる措置をとったが、イギリスは太守に対して特権を守るようにと猛反対した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.93</ref>。こののち、両者は折り合いがつかなくなったため、同年[[7月]]初めにイギリス側はミール・カーシムを廃位し、前太守ミール・ジャアファルの再任を決定した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.94</ref><ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid8.htm Murshidabad 8]</ref>。
これは、シラージュ・ウッダウラの部下がウィリアム要塞やこの牢獄を知らなかったから起ったことであり、必ずしも計画して行われたものではないが、イギリス人は「[[ブラックホール事件]]」、「ブラックホールの悲劇」として語り継いだ。
 
この決定に対し、ミール・カーシムはついにイギリスの横暴への怒りが爆発し、彼はイギリスとの戦争を決意した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.94</ref>。だが、ミール・カーシムは度重なる味方の裏切りにあって敗れ、同年[10月]]末にイギリス軍はパトナに攻めてきた際、戦意を失っていた彼は[[アワド太守]]の[[シュジャー・ウッダウラ]]の保護を受けるために[[アワド]]へと逃げた<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.94</ref>。
さらに、同年[[10月]]半ば、シラージュ・ウッダウラは勢いに乗じ,従兄弟ショーカット・ジャングの軍を破り、その首を取った。
 
===ディーワーニーの授与とベンガル太守の年金生活者化===
ところが、同年[[12月]]半ば、イギリスの軍司令官[[ロバート・クライヴ]]は兵1450を率いカルカッタへと進軍し、[[1757年]][[1月2日]]、彼はカルカッタを奪還し、シラージュ・ウッダウラに対して宣戦を布告した。
[[File:Nazam ud-Daulah.jpg|thumb|right|200px|[[ナジュムッディーン・アリー・ハーン]]]]
ミール・カーシムはアワド太守シュジャー・ウッダウラの保護をうけ、元の状態に戻れるよう援助を約束され、同様にシュジャー・ウッダウラに保護されていたムガル帝国の皇帝[[シャー・アーラム2世]]とも合流した。三者はまずミール・カーシムの為にベンガルを取り戻すことを決定し、[[1764年]][[10月23日]]、三者連合軍はビハールとアワドの州境にある[[ブクサール]]でイギリス軍7000と会戦したが、この戦いは1日で終結し、結果はイギリスの圧勝であった。([[ブクサールの戦い]])。
 
[[1765年]]2月、ミール・ジャアファルが死亡し、その息子[[ナジュムッディーン・アリー・ハーン]]が太守位を継承した<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid9.htm Murshidabad 9]</ref>。だが、イギリスはその継承を認める代わり、ベンガル、ビハール、オリッサ3州の行政権に関してはイギリスが自由に任免できる副太守が行うこととした<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.97</ref>。
同年[[2月]]、シラージュ・ウッダウラはイギリスと、[[フーグリー]]で和平交渉を始めたが決着がつかず、クライヴは和平交渉の印象を残し宿舎に帰ったが、クライヴはベンガル軍に対し夜襲をかけ、不意を突かれたシラージュ・ウッダウラの軍勢は大混乱ののち四散した。
 
その後、同年[[8月16日]]にブクサールの戦いの講和条約[[アラーハーバード条約]]が締結され、イギリスはこのアラーハーバード条約により、ムガル皇帝からベンガル、ビハール、オリッサ3州の[[ディーワーニー]](州財務長官の職務・それに付随する権限)を獲得した。
また、同年[[3月]]イギリスは、フランスのベンガルにおける拠点[[シャンデルナゴル]]に対し猛攻を加え、耐え切れなくなったフランスは降伏し、フランスはベンガルにおける重要な拠点を失った。このとき、その援軍であった太守軍の司令官[[ナンダ・クマール]]は、すでにイギリスに買収されていた。
イギリスがこの条約で獲得した三州のディーワーニーの存在は大きく、これは三州を割譲されたわけではなかったが、イギリスが帝国の州財務長官としての諸税の徴収・支出の職務・権限を皇帝により認められたということである<ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.81</ref><ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.272-273</ref>。イギリスにディーワーニーが与えたことというは、この三州の事実上領有したも同然であった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.272-273</ref>。
 
また、イギリスは行政権を通して司法権を行使することも可能であったが、ベンガル太守が存続していたため、これらの地域は二重統治(二元統治)となった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.276</ref><ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.68</ref>。とはいえ、形式的にはベンガル太守の領土はムガル帝国領だったものの、実質的にはイギリスに管理され、皇帝も太守も行政に関しては関与できなくなった。
だが、シラージュ・ウッダウラは、彼のもとに逃亡したフランス人を保護し、フランスの味方である彼は、イギリスの引き渡し要求に応じなかった。
 
[[9月30日]]、ナジュムッディーン・アリー・ハーンはアラーハーバード条約を受けて、イギリスにベンガル、ビハール、オリッサの3州のディーワーニーを授与した<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid9.htm Murshidabad 9]</ref>。
しかし、イギリスはこの頃、太守の味方である叔父ミール・ジャーファルと密かに内通し味方ににつけ、[[6月10日]]には、彼にシラージュ・ウッダウラへのいかなる行為にも非協力を条件に、ベンガル太守の位を約束していた。
ディーワーニーがイギリスに与えられたことで、ベンガル太守は租税収入がなくなり、イギリスのもとで年金受給者化し、ベンガル太守は年額540万ルピーを内廷費としてあてがわれた<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.274</ref>。
 
イギリスは最初は間接統治を行い、ベンガルとビハール、オリッサにはインド人の代理ディーワーンを配置して収祖権を行使した<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.274</ref>。その理由は、またベンガルという不安定な政治にかかわることで、貿易活動で生み出される巨額の利益を失いことを恐れたからであった<ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.</ref>。だが、徴税業務を行う太守の役人への不信感、そして新たな戦争を行うため莫大な資金を必要とした<ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.82</ref>。
===プラッシーの戦い===
[[Image:Plassey1757max.jpg|thumb|right|300px|プラッシーの戦いの全体図]]
[[File:Clive.jpg|thumb|right|300px|プラッシーの戦いののち、クライヴと面会するミール・ジャーファル]]
[[File:Lord Clive receiving from the Nawab of Bengal.jpg|thumb|right|300px|ミール・ジャーファルから謝礼を受け取るクライヴ]]
 
そのため、[[1772年]][[5月14日]]にベンガル知事[[ウォーレン・ヘースティングス]]はディーワーニーを受諾し、自ら徴税業務を行うことにし、同時に行政・司法も直接統治に移行されれこととなった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.274</ref><ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.44</ref><ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.82</ref>。ここにベンガル太守の領有権は事実上失われ、ベンガルの植民地化は決定した。またこのとき、代替わりの度に減額されていた太守への内定費は160万ルピーへと固定された<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.274</ref>。
[[1757年]][[6月]]、クライヴは2400の兵を率いて、シラージュ・ウッダウラが陣を張るカルカッタ北方の[[プラッシー村]](現地名はポラシ村)へと向かい、ベンガル太守シラージュ・ウッダウラも62,000もの大軍を率い、イギリス軍と同地で決着をつけるつもりだった。
 
[[1793年]][[9月10日]]、ベンガル太守が保持していたベンガル、ビハール、オリッサの名目上の統治権([[ニザーマト]])がイギリスに接収された<ref>[http://www.boloji.com/index.cfm?md=Mobile&sd=PoemArticle&PoemArticleID=82 Zafar's Poetry: Rebellion and Pain]</ref>。これにより、ベンガル太守は単なる有名無実の肩書となり、完全にイギリスの年金生活者と化した<ref>[http://www.boloji.com/index.cfm?md=Mobile&sd=PoemArticle&PoemArticleID=82 Zafar's Poetry: Rebellion and Pain]</ref>。
[[6月23日]]明朝7時頃、先手を打ったクライヴは、プラッシー村に野営していたベンガル軍に攻撃を加え、ベンガル軍もすぐにこれに応戦し戦闘が始まった(プラッシーの戦い)。
 
===ベンガル太守の廃止・ムルシダーバード太守の創始===
ベンガル軍62,000は、シラージュ・ウッダウラの武将[[モーハン・ラール]]と[[ミール・マダン]]率いる歩兵5000と騎兵7000、太守の叔父ミール・ジャーファル率いる歩兵35,000と騎兵15,000であり、あとはフランスの援助である大砲53門と操作するフランス兵40であった。
[[File:Nawab of Bengal.jpg|thumb|[[マンスール・アリー・ハーン]]]]
その後、[[1858年]]に[[インド大反乱]]でムガル帝国が滅亡したのちも、名目的ながらもベンガル太守は存続していた。
 
[[1880年]]11月、太守[[マンスール・アリー・ハーン]]は退位する際<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid13.htm Murshidabad 13]</ref>、ベンガル太守の名称を放棄しなければならなかった<ref>[http://www.boloji.com/index.cfm?md=Mobile&sd=PoemArticle&PoemArticleID=82 Zafar's Poetry: Rebellion and Pain]</ref>。これは彼がイギリスに莫大な借金をしており、
一方、イギリス軍の構成は、ヨーロッパ人兵800名とシパーヒー2300人と、ベンガル軍に対し極めて少数だった。
それを帳消しにするためでもあった<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid13.htm Murshidabad 13]</ref>。なお、この際にイギリスからの年額160万ルピーの年金は廃止され、宝石など財産も処分しなければならなかった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.274</ref>。
 
[[1882年]]2月、マンスール・アリー・ハーンの息子で家長なっていた[[ハサン・アリー・ミールザー・ハーン]]はベンガル太守に代わる称号として、ムルシダーバード太守の称号を採用した<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid16.htm Murshidabad 16]</ref>。
このように、ベンガル軍のほうがイギリス軍より圧倒的有利であったが、歩兵35,000と騎兵15,000を率いベンガル軍に味方していたミール・ジャーファルは、イギリスとの秘密協定によりを動かさず、ベンガル軍の主力50,000は傍観するだけで戦闘に参加しなかった。
 
[[1947年]][[8 月15日]]、[[インド・パキスタン分離独立]]の際、ムルシダーバード区域は[[西パキスタン]]に割り当てられ、パキスタンの旗が太守の宮殿[[ハザールダウリー宮殿]]に掲げられ<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid16.htm Murshidabad 16]</ref>た。だが、2日後の[[8月17日|17日]]にインドはパキスタンとムルシダーバードとカルナーを交換し、ムルシダーバード区域はインドに併合され、同時にインドの国旗が掲げられた<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid16.htm Murshidabad 16]</ref>。
つまり、ベンガル軍の4分の3近くは戦闘に参加していなかったことになるが、シラージュ・ウッダウラは戦いに参加しないのは、ミール・ジャーファルの作戦だと思い込み、全く疑おうとしなかった。
 
こうして、ベンガルのナワーブ王朝はその歴史に幕を閉じた。
昼から[[モンスーン]]の影響で大雨が降りはじめ、戦いは小休止となり、イギリス軍は素早く装備を雨から保護したが、ベンガル軍は訓練不足で雨から装備を保護できず、銃や火薬が水浸しになり火器がまともに使えなかった。
 
==歴代太守==
このため、午後2時に雨が止んだ後、イギリス軍の一方的な功撃にあい、ベンガル軍の司令官たちは相矛盾する命令を送り、兵の士気も低下し混乱し始めた。
*[[ムルシド・クリー・ハーン]](Murshid Quli Khan, 在位:1717年 - 1727年)
*[[シュジャー・ウッディーン・ムハンマド・ハーン]] (Shuja-ud-Din Muhammad Khan, 在位:1727年 - 1739年)
*[[サルファラーズ・ハーン]](Sarfaraz Khan, 在位:1739年 - 1740年)
*[[アリーヴァルディー・ハーン]](Ali Vardi Khan, 在位:1740年 - 1756年)
*[[シラージュ・ウッダウラ]](Siraj ud-Daula, 在位:1756年 - 1757年)
*[[ミール・ジャアファル]](Mir Jafar, 在位:1757年 - 1760年)
*[[ミール・カーシム]](Mir Qasim, 在位:1760年 - 1763年)
*ミール・ジャアファル(Mir Jafar, 在位:1763年 - 1765年)(復位)
*[[ナジュムッディーン・アリー・ハーン]](Najm ud-Din Ali Khan, 在位:1765年 - 1766年)
*[[ナジャーバト・アリー・ハーン]](Najabat Ali Khan, 在位:1766年 - 1770年)
*[[アシュラーフ・アリー・ハーン]](Ashraf Ali Khan, 在位:1770年)
*[[ムバーラク・アリー・ハーン]](Ashraf Ali Khan, 在位:1770年 - 1793年)
*[[バーバル・アリー・ハーン]](Babar Ali Khan, 在位:1793年 - 1810年)
*[[ザイヌッディーン・アリー・ハーン]](Zain-ud-Din Ali Khan, 在位:1810年 - 1821年)
*[[アフマド・アリー・ハーン]](Ahmad Ali Khan, 在位:1821年 - 1824年)
*[[ムバーラク・アリー・ハーン2世]](Mubarak Ali Khan, 在位:1824年 - 1838年)
*[[マンスール・アリー・ハーン]](Mansur Ali Khan, 在位:1838年 - 1880年)
*[[ハサン・アリー・ミールザー・ハーン]](Hassan Ali Mirza Khan, 在位:1882年 - 1906年)
*[[ワーシフ・アリー・ミールザー・ハーン]](Wasif Ali Mirza Khan, 在位:1906年 - 1947年)
 
==脚注==
やがて、武将ミール・マダンが砲撃で戦死すると、シラージュ・ウッダウラは気落ちして、ミール・ジャーファルに助言を求めた。
{{reflist}}
 
ミール・ジャーファルはシラージュ・ウッダウラに忠誠を誓い、「明日自分がイギリス軍への総攻撃をかけるので、今日はもう日も暮れているから戦闘をやめましょう。」と言った。
 
だが、モーハン・ラールは「今の状況で先頭を停止すれば味方の軍は今日の戦闘に敗れたと誤解し、夜半に乗じて四散してしまいます。」と反対したものの、シラージュ・ウッダウラはミール・ジャーファルを完全に信頼しきっており、全軍に戦闘停止を命じた。
 
しばらくすると、モーハン・ラールの心配した通り、ベンガル軍に動揺が広がり、逃げ出す兵が続出し壊走に近い状態となり、シラージュ・ウッダウラもあせりはじめ,首都ムルシダーバードへ逃げ出した。
 
一方、戦闘停止を提案したミール・ジャーファルは公然とイギリス軍に合流し、クライヴに勝利の祝意を伝えた(今でもなお、ミール・ジャーファルの名は、インドでは「裏切り者」の代名詞である)。
 
こうして、ベンガルのおけるプラッシーの戦いは1日で決着がついたが、戦いが1日で終わっただけに両軍の犠牲は少なく、イギリス軍は死者19名、ベンガル軍も500足らずだった。
 
そして、ベンガル太守シラージュ・ウッダウラは逃げきれずに捕えられ、[[7月2日]]に殺害され、その遺体は首都ムルシダーバードへと運ばれた。
 
こうして、イギリスによるベンガルにおける覇権が決まり、ベンガルは完全にイギリスによって制圧され、フランスは次の第3次[[カーナティック戦争]]にも負けて占領されインドから撤退し、南インドにおいてもイギリスの覇権が決定した。
 
だが、シラージュ・ウッダウラの反英闘争は決して無駄ではなく、[[1930年]]代からのベンガル及びインドの反英闘争において、彼はイギリス支配に抵抗した「英雄」として扱われ、現在のバングラデシュでも同様である。
 
===イギリスとベンガル太守ミール・ジャーファル===
[[File:Mir Jafar (left) and Mir Miran (right).jpg|thumb|right|250px|ミール・ジャーファル(横にいるのは息子[[ミール・ミーラーン]])]]
[[File:Mir Jafar and his son Miran delivering the Treaty of 1757 to William Watts.jpg|thumb|right|イギリスがミール・ジャーファルに条約の再確認をしている。]]
 
1757年6月末、ミール・ジャーファルは首都ムルシダーバードに入城し、彼はイギリスによってベンガル太守(在位1757 - 1760)に任命された(これ以降、ベンガル太守はイギリス東インド会社の任命となった)。
 
一方、[[ベンガル知事]]に任命されたクライヴは、ミール・ジャーファルから毎年30000[[ポンド]]の謝礼を受けたが、のちにこれは彼が本国に帰国したとき不正蓄財として裁判で争われることとなり、クライヴの破滅にもつながった。
 
また、ベンガル太守ミール・ジャーファルとイギリスの間に結ばれた事前の秘密協定では、彼をベンガル太守とする代償として、イギリス東インド会社にチッタゴン、[[ミドナプル]]、[[ブルドワーン]]を割譲し、会社に2250万[[ルピー]]、会社役員には580万ルピー、あわせて総額2830万ルピーを支払われることとされていた。
 
しかし、ミール・ジャーファルがあてにしていたムルシダーバードの金庫は、前太守シラージュ・ウッダウラが使い果たしており、その支払いの履行は厳しく、結局、ミール・ジャーファルはイギリスに半分は支払ったものの、残り半分は年3回の分割払いとすることでクライヴも了承した。
 
この支払はベンガルの財政を破綻させ、ミール・ジャーファルは支払いのためザミーンダールから容赦なく取り立て、彼らからは反抗を受けることとなり、一部はイギリスに保護を求めるありさまだった。
 
そのため、やりきれなくなったミール・ジャーファルは、[[酒]]や[[ハーレム]]浸りとなり、遂には麻薬まで手を出すようになった。
 
このベンガルの状況に対し、[[1760年]]にマラーターがベンガル領内に侵攻してきたが、ミール・ジャーファルの要請で出動したイギリス軍によって追い払われ、また、家臣[[ハーディム・フセイン]]が反乱を起こしたが、これもイギリスによって鎮圧された。もはや、ベンガルはイギリスの援助なしでは1日として存続できないようになっていた。
 
同年、クライヴは帰国し、新たにベンガル知事となった[[ヘンリー・ヴァンシタート]]は、ミール・ジャーファルに巨額の支払いを続ける変わりに、[[チッタゴン]]をイギリス東インド会社に割譲するよう提案したが、彼は同意しなかった。
 
そこで、ヴァンシタートは、首都ムルシダーダーバードの宮殿にいたミール・ジャーファルに退位を迫ったが、彼は頑として受け入れようとしなかったが、交渉が行われている間にベンガル軍が反乱を起こしたため、[[10月]]ミール・ジャーファルは退位を余儀なくされた。
 
===ベンガル太守ミール・カーシムの反英闘争===
[[File:Mir Qasim.jpg|thumb|250px|right|ミール・カーシム]]
[[File:The Navab's arrival before Clive's position.jpg|thumb|The Navab's arrival before Clive's position|thumb|250px|right|ミール・カーシム(象の上にいる人物)]]
 
イギリスはミール・ジャーファルの後任として、ミール・ジャーファルの娘婿である[[ミール・カーシム]](在位1760 - 1763)を、新たなベンガル太守に任命した。
 
このミール・カーシムという人物は、才覚と強い意志を持ち、以前から義父ミール・ジャーファルの政治を補佐しており、その在任中に頻発した反乱と和解、鎮圧するなど、イギリス側からも注目されていた人物でもあった。
 
だが、ミール・カーシムも自分をベンガル太守に擁立する代償に、イギリスと秘密協定を交わしており、ヴァンシタートに50万ルピー、イギリス東インド会社の高官に175万ルピー、イギリス東インド会社に150万ルピー、あわせて総額325万ルピーの支払いを約束していた。
 
そのため、ミール・カーシムは、様々な名目でその費用をザミーンダールから徴収し、支払わない者は財産を没収するなど強権的な態度に出たが、長年徴収されてばかりいたザミーンダールらの反感を買い、一部のザミーンダールは反乱まで起こした。
 
こうなると、ミール・カーシムは、だんだんとイギリスの支配から独立したいと思うようになり、ヨーロッパ人の軍事教官を雇い入れ、兵器も最新のものにするなどベンガル軍の改革に乗り出し、首都をムルシダーバードからビハールの[[ムンガー]]に移転し、イギリスから軍の強化を悟られないようにした。
 
さらに、ミール・カーシムはベンガル軍の改革の成果をみるため、国境を接する隣国[[ネパール]]に密かに侵攻し、一応、ネパール軍を破ったが[[ゲリラ]]の抵抗が強く、領土を保持できず占領地からは撤退した。
 
無論、これら一連の出来事は、ミール・カーシムとイギリスとの関係を悪化させ、また問題となっていたのはこれだけではなく、1717年の勅令に基づいて行われていた、イギリス東インド会社社員による私貿易およびその関税も問題であった。
 
1717年にイギリスが、ムガル帝国の皇帝ファッルフシヤルから与えられたベンガルにおける関税の免除特権は、「船によって国に輸入され、もしくは国から輸出される品物について、会社の封印のある許可状を提示したもののみ関税を免除される。」というものだった。
 
だが、イギリス東インド会社の職員は、プラッシーの戦い以降、勅許の内容を勝手に広く解釈し、彼らはすべての私貿易と品物の取引が無税であると主張するようにったため、[[1762年]][[12月]]、ミール・カーシムはイギリス東インド会社の社員によるすべて私貿易について、その税を支払うようイギリス東インド会社へと通達した。
 
しかし、イギリス東インド会社の高官も私貿易をおこなっており、ベンガル側の人間も賄賂を受け取り見逃がしたためほとんど効果がなかった。
 
また、ミール・カーシムは、イギリスが様々な方法でベンガルの人々を苦しめていると、これらも併せてイギリスに抗議した。たとえば、地元商人にイギリスの商品を扱わせなかったり、イギリスが徴税権を持つ土地において、地元農民から農作物を4分の1の値段で強制的に買い上げたリ、税が支払えない農民から強制的に土地を取り上げたりしているというものだった(通常、税が払えなくても財産である土地を取り上げられることはなく、鞭打ちの刑にあうだけだった)。
 
だが、イギリス側はこれらの要求を無視し続けたため、ミール・カーシムとイギリスの関係はさらに悪化した。
 
[[1763年]]、ミール・カーシムは、関税問題の解決策として、地元商人だけが不利にならぬよう、すべての商品関税を無税にさせる措置をとったが、イギリス側は「イギリス人の権利は守られねばならず、イギリス人以外のすべての商人は関税を支払わなければならない。」と主張し、関税を廃止するという命令は撤回されるべきであるとし、イギリス側の使者[[アミャット]]にこれを伝えさせた。
 
これに対し、ミール・カーシムは、「すべての要求を受け入れる余裕用意はあるが、唯一の条件はベンガルからすべてのイギリス人兵士がいなくなることだ。」と言い、折り合いがつかなかった。
 
時を同じくして、[[パトナ]]にあるイギリス工場の工場長[[エリス]]は、関税をめぐってベンガルとトラブルを起こして、腹いせにパトナにある太守の要塞を攻撃し、パトナの町を占拠し略奪をほしいままにしたが、ミール・カーシムはすぐさまパトナに軍勢を送り、エリスの工場を焼き払わせ、エリスを降伏させた。
 
この時、ミール・カーシムは、伝言を伝えたのちにカルカッタへ帰還しつつあったアミャットの船の拿捕を命じたが、アミャットが抵抗しため砲撃戦となり、アミャット以下多数の乗組員が戦死した。
 
この事件は、悪化の一途をたどっていたミール・カーシムとイギリスの関係に終止符を打ち、同年[[7月]]初め、イギリス側は前太守ミール・ジャーファルの再任(在位1763 - 1765)を決定した。
 
この決定に対し、ミール・カーシムはついにイギリスの横暴に対する怒りが爆発し、彼はイギリスとの戦争を決意し、ミール・カーシムの軍とイギリス東インド会社軍がムルシダーバード付近で両軍が激突するに至った。
 
ミール・カーシムの軍が50,000を超す大軍であるのに対し、イギリス軍はヨーロッパ人1000とインド人傭兵4000からなる兵5000と、ミール・カーシム軍のほうが圧倒的有利だったが、ミール・カーシム軍にはイギリスと内通している者が少なくはなく、プラッシーのときと同様に裏切られ惨敗し、ムルシダーバードはイギリスに占拠されてしまった。
 
こののち、ミール・カーシムは何度かイギリスと交戦したが、いざという時にいつも味方に裏切られ惨敗し、敗北が続き、ミール・カーシムは首都ムンガーにおいて、捕虜にした内通した者たちに重石をつけ、[[ムンガー要塞]]から[[ガンジス川]]へ放り投げた。
 
その後、ミール・カーシムは部下の[[アラブ・アリー・ハーン]]にムンガー要塞をまかせ、自身はパトナに向かうことにしたが、このアラブ・アリー・ハーンもイギリスと内通しており、すぐにイギリスにムンガー要塞を明け渡したため、ミール・カーシムは激怒し、イギリス人捕虜を女子供に至るまで皆殺しにした。
 
[[1763年]][[10月]]末、イギリス軍はパトナに攻めてきたが、ミール・カーシムは度重なる裏切りに絶望して戦意をなくし、[[アワド太守]]の[[シュジャー・ウッダウラ]]の保護を受けるために、隣接する[[アワド]]へと逃げた。
 
===ブクサールの戦い===
[[File:अवध के नवाब शुजाउद्दौला.jpg|thumb|right|230px|シュジャー・ウッダウラ]]
[[画像:Portrait1790s.jpg|thumb|right|230px|シャー・アーラム2世]]
ミール・カーシムはアワドに落ち延び、アワド太守シュジャー・ウッダウラの保護をうけ、元の状態に戻れるよう援助を約束され、同様にシュジャー・ウッダウラに保護されていたムガル帝国の皇帝[[シャー・アーラム2世]]とも合流した。
 
こうして、ムガル皇帝シャー・アーラム2世、アワド太守シュジャー・ウッダウラ、前ベンガル太守ミール・カーシムの間に三者同盟が結成され、三者はまずミール・カーシムの為にベンガルを取り戻すことを決定し、[[1764年]][[10月23日]]、三者連合軍40000はビハールとアワドの州境にある[[ブクサール]](バクサルとも)でイギリス軍7000と会戦した([[ブクサールの戦い]])。
 
しかし、ミール・カーシム軍は給料未払いで兵士に戦意がなく、皇帝軍は内通者があり兵が動かなかったため、実際はアワド太守の軍とイギリス軍との戦いであり、戦いは1日で終結し、結果はイギリスの圧勝であった。
 
その後、イギリスのベンガル知事クライヴ(1765年[[3月]]に帰国し、ベンガル知事に再任していた)は戦後処理として、アワド太守シュジャー・ウッダウラにミール・カーシムを捕えさせ投獄し、翌[[1765年]][[8月16日]]に[[アラーハーバード条約]]が締結され、イギリスはこのアラーハーバード条約により、ムガル皇帝からベンガル、ビハール、オリッサ3州の[[ディーワーニー]]を獲得した。
 
ディーワーニーとは、ムガル皇帝より[[ディーワーン]]と呼ばれる各州の徴税長官に与えられる権限を意味し、徴税権、司法権、行政権など内政権を含む権限であったが、イギリスは事実上の領有権を主張し、帝国の与えたディーワーニーよってそれらの土地の支配が正当化されたと判断した。
 
これにより、イギリスはベンガル、ビハール、オリッサを領有して事実上の太守となり、これ以降インドの植民地化をさらに押し進めるようになった(とはいえ、イギリスは徴税業務は太守の役人に行わせた)。
 
ここに、ベンガル太守の領有権は事実上失われ、ベンガル太守は単なる有名無実の肩書となり、ベンガルの植民地化は決定した。
 
一方、前ベンガル太守ミール・カーシムは投獄されたのち釈放され、インド各地を転々と放浪し、[[1774年]]頃からデリーに住み、[[1777年]][[5月8日]]に帝都デリーで死亡した(その困窮の度合いは凄まじく、彼の葬儀を行うために、その衣服を売らなければならなかった)。
 
===ベンガルの藩王国化とインド併合===
[[File:Nazam ud-Daulah.jpg|thumb|right|200px|ニザーム・ウッダウラ]]
[[File:Nawab of Bengal.jpg|thumb|マンスール・アリー・ハーン]]
[[1763年]]、ベンガル太守に復帰したミール・ジャーファルは、イギリスと新たに協定を締結せざるを得ず、その協定はベンガル太守の安全を守る代償として、イギリスにカルカッタ以外の地の徴税権を新たに与え、イギリス人の貿易は無税で自由にできるものであるというものだった。
 
さらに、内政権は太守にゆだねたが、過去の太守らのようにイギリスの意に反する行動をとらぬよう、首都ムルシダーバードには太守を監視するため駐在官がおかれることとなった。
 
この協定は、のちにイギリスがインド各地の王侯と結ぶこととなる一連の協定となり、それらを藩王国とするものさきがけでもあった。
 
[[1765年]][[2月5日]]ミール・ジャーファルは死亡し、息子の[[ニザーム・ウッダウラ]](在位1765 - 1766)が後を継いだが、この時からベンガル太守の位は、ムガル帝国からではなくイギリスが任命することが正式に決定された。
 
イギリスはベンガル地方の徴税業務を太守の役人に行わせていたが、クライブの部下の腐敗や太守の役人への不信感から、[[1771年]]からはイギリスが行うようになった([[1767年]]、クライヴは帰国したが、在任中の不正を批判され、莫大な財産を奪われ、[[1774年]]自殺した)。
 
[[1781年]]、ベンガル太守はイギリスに徴税権、裁判権など内政権を奪われ、ムガル帝国の名目的主権から事実上外され、ムルシダーバードとその周辺のみを支配するだけとなり、[[藩王国]]化した(ベンガル藩王国)。
 
[[1880年]][[12月]]、[[マンスール・アリー・ハーン]]の退位後、ベンガル藩王国はイギリスにより、ムルシダーバード藩王国に改称させられた。
 
[[1947年]][[8月15日]]、[[インド・パキスタン分離独立]]時、ムルシダーバード藩王国は現在の[[西ベンガル州]]にあったことから、[[インド]]に併合された。
 
==歴代君主==
[[File:Ali Jah.jpg|thumb|right|150px|ザイヌッディーン・アリー・ハーン]]
[[File:Nawab Nazim Humayun Jah.jpg|thumb|right|150px|ムバーラク・アリー・ハーン]]
[[File:Wasif Ali Mirza Khan Bahadur.jpg|thumb|right|150px|ワーシフ・アリー・ミールザー・ハーン]]
*ムルシド・クリー・ハーン(Murshid Quli Khan, 在位1717 - 1727)
*シュジャー・ウッディーン・ムハンマド・ハーン(Shuja-ud-Din Muhammad Khan, 在位1727 - 1739)
*サルファラーズ・ハーン(Sarfaraz Khan, 在位1739 - 1740)
*アリー・ヴァルディー・ハーン(Ali Vardi Khan, 在位1740 - 1756)
*シラージュ・ウッダウラ(Siraj ud-Daula, 在位1756 - 1757)
*ミール・ジャーファル(Mir Jafar, 在位1757 - 1760)
*ミール・カーシム(Mir Qasim, 在位1760 - 1763)
*ミール・ジャーファル(Mir Jafar, 復位1763 - 1765)
*ニザーム・ウッダウラ(Nizam ud-Daula, 在位1765 - 1766)
*サイフ・ウッダウラ(Saif ud-Daula, 在位1766 - 1770)
*アシュラーフ・アリー・ハーン(Ashraf Ali Khan, 在位1770 - 1793)
*アズド・ウッダウラ(Azud ud-Daula, 在位1793 - 1810)
*ザイヌッディーン・アリー・ハーン(Zain-ud-Din Ali Khan, 在位1810 - 1821)
*アフマド・アリー・ハーン(Ahmad Ali Khan, 在位1821 - 1824)
*ムバーラク・アリー・ハーン(Mubarak Ali Khan, 在位1824 - 1838)
*マンスール・アリー・ハーン(Mansur Ali Khan, 在位1838 - 1880)
*ハッサン・アリー・ミールザー・ハーン(Hassan Ali Mirza Khan, 在位1880 - 1906)
*ワーシフ・アリー・ミールザー・ハーン(Wasif Ali Mirza Khan, 在位1906 - 1947)
 
==参考文献==
*「新版{{Cite|和書|author =小谷汪之|authorlink =小谷汪之|translator=|title =世界各国7大系 南アジア史2―中世・近世―|publisher =山川出版社 辛島昇|date =2007年| isbn =}}
*{{Cite|和書|author =ビパン・チャンドラ|authorlink =ビパン・チャンドラ| translator=栗原利江|title =近代インドの歴史|publisher =山川出版社| date =2001年|isbn =}}
*「世界歴史の旅 北インド」 山川出版社 辛島昇・坂田貞二
*{{Cite|和書|author =堀口松城|authorlink =堀口松城| translator=|title =世界歴史叢書 バングラデシュの歴史|publisher =明石書店| date =2009年| isbn =}}
*「インド史」 法蔵館 P・N・チョプラ
*{{Cite|和書|author =バーバラ・D・メトカーフ、トーマス・D・メトカーフ|authorlink =|translator=河野肇|title =ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史|publisher =創士社| date =2009年| isbn =}}
*「近代インドの歴史」 山川出版社 ビパン・チャンドラ
*{{Cite|和書|author =フランシス・ロビンソン|authorlink = フランシス・ロビンソン| translator=月森左知|title =ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)|publisher =創元社|date =2009年|isbn =}}
*「南アジアの歴史」 有斐閣アニマ 内藤雅雄 中村平治
*「ブリタニカ国際百科事典」株式会社ティビーエス・ブリタニカ
*「南アジアを知る事典」平凡社
*「アジア歴史事典」(全10巻+別巻)平凡社
*「世界史事典 三訂版」旺文社
 
==外部リンク==
*[http://murshidabad.net/history/history-topic-nawab.htm Murshidabad History - The Nawabs and Nazims]
*[http://murshidabad.net/history/history-topic-murshid-quli-khan.htm Murshidabad History - Murshid Quli Khan]
*[http://murshidabad.net/history/history-topic-alivardi-khan.htm Murshidabad History - Alivardi Khan]
*[http://murshidabad.net/history/history-topic-siraj-ud-daulla.htm Murshidabad History - Siraj-ud-Daulla]
*[http://murshidabad.net/history/history-topic-mir-jafar.htm Murshidabad History - Mir Muhammed Jafar Ali Khan]
*[http://murshidabad.net/history/history-topic-mir-qasim.htm Murshidabad History - Mir Qasim]
 
==関連項目==
{{commons category|Nawab of Bengal}}
*[[ムガル帝国]]
*[[ネイボッブ]]
*[[:en:Nawabs of Bengal and Murshidabad|Nawabs of Bengal and Murshidabad]]
*[[:en:Murshid Quli Khan|Murshid Quli Khan]]
*[[:en:Shuja-ud-Din Muhammad Khan|Shuja-ud-Din Muhammad Khan]]
*[[:en:Alivardi Khan|Ali Vardi Khan]]
*[[:en:Siraj ud-Daulah|Siraj ud-Daula]]
*[[:en:Mir Jafar|Mir Jafar]]
*[[:en:Mir Qasim|Mir Qasim]]
 
{{Template:インドの王朝}}
{{DEFAULTSORT:へんかるたいしゆ}}
[[Category:ベンガル]]
[[Category:ムガル帝国]]
[[Category:インドの王朝]]
[[Category:イスラム王朝]]
[[Category:ムガル帝国]]
[[Category:ベンガル]]
[[Category:ムガル朝継承国家]]
 
{{Template:インドの王朝}}
{{Link GA|en}}
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