「徳川重好」の版間の差分

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== 重好死後の清水家 ==
重好には嗣子がなかったため、領地・家屋敷は一時的に[[江戸幕府|幕府]]に収公されている。収公は第8代将軍[[徳川吉宗]]の意向に背くものであったため、同年7月、[[一橋徳川家]]当主の[[徳川治済|治済]]は[[老中]][[松平信明 (三河吉田藩主)|松平信明]]らに強く抗議している。治済は七男の亀之助(後の[[松平義居]])による相続を考えていたようである。その後の清水家は、第11代将軍[[徳川家斉]]が五男の[[徳川敦之助|敦之助]]を当主に立てて寛政10年([[1798年]])に再興されている。
 
== 経歴 ==