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'''伊勢 継子'''(いせ の つぎこ、[[宝亀]]3年([[772年]]) - [[弘仁]]3年[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]([[812年]][[8月16日]]))は、[[平城天皇]]の側室。[[木工寮|木工頭]][[伊勢老人]](いせのおきな)の娘。[[高岳親王]]([[嵯峨天皇]]皇太子)・[[巨勢親王]]・[[上毛野内親王]]・[[石上内親王]]・[[斎宮]][[大原内親王]]の母。
 
2歳年少の安殿親王(後の平城天皇)の皇太子時代に早くから入侍し、彼との間に2男3女を産んだ。平城天皇即位後、[[大同 (日本)|大同]]3年([[808年]])11月に無位から[[正五位|正五位下]]に叙位され、翌年の大同4年5月、[[河内国]]の[[内蔵寮]]田11町を賜った(但し、継子の死後は再び内蔵寮田とするという条件が付いていた)。[[810年]]、[[薬子の変]]で高岳親王が皇太子を廃された。弘仁2年([[811年]])4月、[[従四位下]]で[[山城国]][[紀伊郡]]([[京都市]][[伏見区]]・[[南区 (京都市)|南区]]・[[東山区]]のそれぞれ一部)の田2町を賜った。弘仁3年7月6日、41歳で卒去。没後に[[従三位]]を追贈された。