「コメット連続墜落事故」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
17行目:
 
* [[1952年]][[10月26日]]の雨の夕方、ロンドン発ヨハネスブルグ行の [[英国海外航空|BOAC(英国海外航空)]] コメット9番機(G-ALYZ、Mk.I 最終号機)が、経由地の[[ローマ]]から[[カイロ]]に向かう際、夜間雨の[[チャンピーノ空港]]を離陸滑走中に対気速度75-80[[ノット|ノット (kt)]] (139 - 148 km/h) の時点で首輪が上がり始めた。その後112 kt (207 km/h) で機体の浮揚を感じ[[降着装置]]を格納しかけたが、実際には[[失速]]速度を超えておらず再接地したため、驚いた機長が離陸断念したものの止まり切れず、滑走路を逸脱し土盛り部分で停止した。主翼から燃料が漏出したが、自動カットオフ装置と自動消火装置が正常に作動して発火には至らず、また胴体の損傷が殆どなく迅速に脱出できたため、乗員乗客43名中、軽傷者2名だけで済んだ。性急な機首上げのために[[抗力|空気抵抗]]が増大し、最大荷重に近い状態では十分に加速できなかったことが事故原因として指摘された。同機は就航後僅か26日で抹消処分になった。
* [[1953年]][[3月3日]]、[[カナダ太平洋航空]] (CP Air) へ引き渡しで移動中の Mk.IA 2号機「エンプレス・オブ・ハワイ」(CF-CUN) が、途中[[カンタス航空]]へのデモフライトで[[シドニー]]に向かうため、[[パキスタン]]・[[カラチ]]の[[ジンナー国際空港|ジンナー空港]]に給油で立ち寄った。現地時間午前3時35分に、次の経由地の[[ビルマ]]の[[ラングーン]](現[[ミャンマー]]の[[ヤンゴン]])に向けて離陸滑走を開始したが、燃料を満載した過荷重状態にも関わらず機首上げを急いだために、エンジンへの空気流量が減少して出力低下したことも重なって、失速速度を超えられなかった。尾部バンパーの接地で過誤に気付いた機長は機首下げ操作を行い、速度は回復したが時既に遅く 2,400m の滑走路端で、その後僅かに浮上したものの、空港外にあった橋梁に主輪が引っ掛かり、川の土手に激突し爆発炎上した。乗員5名と、同乗していたデハビランド社の技術者6名全員が犠牲になった。ジェット機に不慣れな機長が長距離飛行で疲労していたことも一因に挙げられたが、もう 1.5m 上昇していれば遭難は回避できたと見られた。BOAC は代償として自社機 Mk.IA 1号機 G-ANAV を CP Air に譲渡した (CF-CUM)。
* [[1953年]][[6月25日]]、[[フランス]]の[[UTA|UTA航空]]の Mk.IA (F-BGSC<ref>[http://aviation-safety.net/database/record.php?id=19530625-0 aviation-safety.net/database/record.19530625-0]</ref>、通算19番機)が、[[セネガル]]の[[ダカール]]空港への着陸進入に失敗して滑走路を逸脱し、外溝に飛び込み車輪をもぎ取られた。各安全装置が正常に作動したため乗員7名乗客10名は全員無事だったが、保険が下りたため事故機は現地で放棄された。就航から7週間であった。