「田口良遠」の版間の差分

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== 良遠の逃亡 ==
『[[平家物語]]』によれば、義経が阿波国勝浦浜<ref>『源平盛衰記』に「はちまあまこの浦」とあり、角田文衛は勝浦郡八万の尼子浦(徳島市八万町の勝浦川の河口付近)と推定している(参考文献の1、127頁)。</ref>に上陸すると40歳がらみの男が黒皮緘の鎧姿で現れたので、降人とさせて義経のもとに引き連れその名を問うと、「当国の住人板西近藤六親家<ref>親家の通称については『平家物語』のほか『源平盛衰記』に「近藤六」、『吾妻鏡』では「近藤七」(参考文献の1、328頁、第2章の補注)。</ref>」と答え、また上陸地の名を「勝浦」と言った。義経は笑って、「(勝らとは、)世辞だな」と言うと、近藤親家は「かつらとは言い易くそう言うのですが、文字には勝浦と書くのです」。義経はそれを聞くと目出度いと喜び、そして更に「もしもこの辺りで平家に加勢するような者があるとすればそれは誰か」と問うと親家は「阿波民部重能の弟、桜庭介能遠(良遠)という者が居ります」と答えた。そこで義経は「それならば蹴散らして通ろう」と言って親家の手勢百騎ほどのうちより三十騎を選りすぐって自らの軍勢に加え、良遠の居城に押し寄せた。すると良遠の城は三方が沼で一方が堀であったので堀の側から攻め懸かりどっと鬨の声を上げた。良遠方の城兵は「ただ射取れや、射取れ」と距離を引き詰めて散々に矢を射掛けたが、義経の源氏勢はものともせずに堀を越え攻め込んだので、良遠は「叶わじ」と思い家の子郎党が防ぎ矢する間に屈強な馬に打ち乗って辛くも落ちのびて行ったという。<ref>当節は参考文献の2、176頁に拠る。</ref>
 
== 脚注 ==