「1918年イギリス総選挙」の版間の差分

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戦時中の1918年においては、デビッド・ロイド・ジョージは自由党アスキス派にたいして宥和的だった。[[休戦協定]]直後の議会解散のおりでも、自由党の伝統的政策である「[[自由貿易]]」「[[平和]]」に忠実であると宣言し、[[最低賃金#イギリス|最低賃金法]]の導入や対[[ドイツ]]政策も復讐ではなく、[[自由主義]]的公正さで対処すると示唆していた。
 
しかし、デビッド・ロイド・ジョージは有権者が対独強硬路線にあると判断すると、「ドイツにトコトン払わせる」と呼びかけ、自由党アスキス派の議員に連立派を支持するか否かによって、候補者に公認証書を与えるとし、<ref>保守党の側も{{仮リンク|エリック・キャンベル・ゲッデス|en|Eric Campbell Geddes}}らによる「レモンの種が泣くまでドイツから搾り取れ("We shall squeeze the German lemon until the pips squeak!")」というスローガンを立て対独強硬路線を強調した。</ref>自分に賛成する159人の自由党員に公認証書を与えた。そして、公認証書には保守党党首[[アンドルー・ボナー・ロー]]の署名も副えられていたほか、保守党はこの選挙区に公認候補を立てなかったために選挙に有利に働くこととなった。逆に自由党非連立派が立った選挙区には公認証書を持った刺客候補を送りつけて徹底的に戦った。
 
敗戦処理の講和を巡り、自由党はアスキス派とロイド・ジョージ派に分裂したが、有権者は「[[戦争]]を勝利に導いた男」としてデビッド・ロイド・ジョージに率いられた連立派(保守党ボナー・ロー派+自由党ロイド・ジョージ派)を圧倒的に支持した。一方、自由党アスキス派はアスキスの落選を含め28人と完敗した。自由党の主張である不介入主義は、戦争の長期化による[[徴兵制度|徴兵制]]の導入、[[新聞]]の[[検閲]]により、すっかり色あせていた。次回[[1922年イギリス総選挙|22年の総選挙]]で、連立派は解消され、自由党は労働党に次ぐ第3党に転落し、以降[[二大政党制|二大政党]]の一角の地位を回復する事は出来なかった。