「佐伯祐三」の版間の差分

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佐伯は1898年(明治31年)、大阪府西成郡中津村(現大阪市北区[[中津 (大阪市)|中津]]二丁目)にある光徳寺の男4人女3人の兄弟の次男として生まれた。1917年(大正6年)東京の小石川(現・[[文京区]])にあった川端画学校に入り、[[藤島武二]]に師事する。旧制北野中学(現・[[大阪府立北野高等学校]])を卒業した後、1918年(大正7年)には、東京美術学校(現・[[東京藝術大学]])西洋画科に入学し、引き続き藤島武二に師事、1923年(大正12年)に同校を卒業した。東京美術学校では、卒業に際し[[自画像]]を描いて母校に寄付することがならわしになっており、佐伯の自画像も現存している。鋭い眼光が印象的なこの自画像は、作風の面では印象派風の穏やかなもので、後のパリ滞在中の佐伯の作風とはかなり異なっている。なお、在学中に結婚した佐伯の妻・米子(旧姓・池田)も絵を描き、二科展などにも入選していた。
 
佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し<ref>1回目は船で、2回目は早いので[[シベリア鉄道]]で渡仏(「ぶらぶら美術館」佐伯祐三特別展 [[宇都宮美術館]][[BS日テレ]][[2014年10月17日放送]])。</ref>、代表作の多くはパリで描かれている。第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在であった。1924年のある時(初夏とされる)、佐伯はパリ郊外のオーヴェール・シュル・オワーズ([[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]の終焉の地として知られる)に、[[フォーヴィスム]]の画家[[モーリス・ド・ヴラマンク]]を訪ねた。佐伯は持参した自作『裸婦』を見せたところ、ヴラマンクに「このアカデミックめ!」と一蹴され、強いショックを受けたとされる(その後、何度かヴラマンクの下に足を運んでいる)。事実、この頃から佐伯の画風は変化し始める。この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたもので、ヴラマンクとともに[[モーリス・ユトリロ|ユトリロ]]の影響が明らかである。佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが、佐伯の健康を案じた家族らの説得に応じ、1926年にいったん日本へ帰国した。パリでの友人である[[前田寛治]]、[[里見勝蔵]]、小島善太郎らと「1930年協会」を結成する。
 
2度目の滞仏はそれから間もない[[1927年]](昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかった。佐伯は旺盛に制作を続けていたが、1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となった。「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で「描ききった」と家族に説明していたという。屋内ではその後も「郵便配達夫」(油絵2点、グワッシュ1点を描いてその後現れなかったので妻は「神様だった」と話した)などを描く<ref>「[[ぶらぶら美術館]]」佐伯祐三特別展 [[宇都宮美術館]]([[BS日テレ]][[2014年10月17日放送]])。</ref>。自殺未遂を経て、セーヌ県立ヴィル・エブラール精神病院に入院。一切の食事を拒み、同年8月16日、妻が娘の看病をしていたので妻に看取られることなく衰弱死した。墓所は生家である光徳寺。
 
現在、佐伯の作品は[[大阪市立美術館#市立近代美術館計画|大阪市立近代美術館建設準備室]]50点、[[和歌山県立近代美術館]]14点など、全国34ヶ所に所蔵されている<ref>週刊朝日百科 『日本の美術館を楽しむNo.24 三重県立美術館』 [[朝日新聞社]]、2005年、13頁</ref>。