削除された内容 追加された内容
Degueulasse (会話 | 投稿記録)
193行目:
現在の市域周辺が日本史の舞台に登場するのは、[[710年]]に[[都]]が[[藤原京]]から[[平城京]]に遷ってからのことである。その後、何度か短期間の遷都があったものの[[長岡京]]に遷る[[784年]]まで、この地が日本の中心となっていた。[[長岡京]]への遷都後も、[[東大寺]]や[[薬師寺]]、[[興福寺]]などの仏教寺院勢力がこの地域に残り、「[[都市#都市を形容する通称|南都]]」と呼ばれた。
 
中世になってからも、興福寺が大和[[守護]]職に任じられるなど、広大な[[荘園]]を有する仏教寺院勢力は依然として影響力を保持していた。むしろ大寺院の勢力は戦乱の時代においてこそ影響力が大きく、そのために何度か戦火に見舞われた。2度の大仏焼失事件([[南都焼討]]と[[東大寺大仏殿の戦い]])などはその象徴的なできごとといえる。しかし、[[室町時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけて、他国および近在の所領も含めて在地の[[衆徒|大和武士団]]が実効的な支配を行うようになったために、大寺院の勢力は衰えた。
 
[[江戸時代]]には[[遠国奉行#奈良奉行|奈良奉行]]が設置され、[[江戸幕府]]の直接支配下に置かれた。この時代の雰囲気を残すのが奈良町([[ならまち]])である。また、現在の市域の南部は[[津藩]]の飛び地(古市町付近)、同じく北東部は[[柳生藩]]の領地となっていた。