「三遊亭圓丈」の版間の差分

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== 来歴・人物 ==
[[1979年]]に師匠・[[三遊亭圓生 (6代目)|6代目三遊亭圓生]]が死去するまでは圓生が新作を嫌っていたこともあり、古典を演じることが多かったが、[[1980年代]]以降はもっぱら新作派として知られる。その演目のほとんどは自作である。従来の新作落語は[[落語芸術協会]]の[[柳家金語楼]]の流れを汲むものであったが、圓丈はこうした新作がすでに古臭くなっていると考え、独自の「'''実験落語'''」を創作。弟子の[[三遊亭白鳥]]や[[柳家喬太郎]]、[[春風亭昇太]](元々は圓丈への弟子入りを考えていたという)など新作を手がける後進の若手落語家や上方の[[桂文枝 (6代目)|6代目桂文枝]]などに大きな影響を与えた。特に『グリコ少年』は、三枝や喬太郎が揃って影響を受けたと言っている。柳家喬太郎が圓丈作の『ぺたりこん』をレパートリーとするなど、圓丈自身よりも他の落語家のほうが口演する機会が多くなった圓丈作品もある。新作の時にかつては[[ローリング・ストーンズ]]のベロマーク(タンロゴ)など、様々なワッペンを着物に貼って高座に出ることが多かったが、2004年頃還暦を迎えてから袖無羽織(ちゃんちゃんこ)を着るようになった。
 
気難しい圓生から大きな期待をかけられた弟子であり、「あたしにはない、不思議なフラ(面白さ)を持っている」と前座時代から圓生は周囲に漏らしていたという。[[真打]]昇進は6人抜擢で、弟子の中で唯一、圓生は真打昇進披露興行に50日間1日も休まず付き合ったといわれる。「先に入ったものが偉い」落語の世界で、圓丈自身が七番弟子であったことを考えると、異例の扱いである。
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[[2005年]]ごろから、高座で[[古典落語]]の口演を解禁した。弟子に教える噺は全て古典で、[[三遊派]]の演じ方にこだわり、『[[八九升]]』をまず最初に教える。自身は、『[[強情灸]]』『[[金明竹]]』などの軽い噺から『[[真景累ケ淵|豊志賀の死]]』『[[らくだ (落語)|らくだ]]』『[[居残り佐平次]]』『[[文七元結]]』など大ネタまでを演じている。入門の動機も、新作をするなら基本をみっちり仕込んでくれる圓生のもとがよいとのことであるから、古典をきちんと演じられる力量がある(本人曰く、二ツ目時代までで130本の古典落語を覚えたという)。なお、古典を演じる時は眼鏡を外す。
 
兄弟子・[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]とは師匠・圓生の死後に対立が表面化。[[1986年]]に出版した分裂騒動の回想記『[[御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち]]』で、落語協会分裂騒動の際の圓楽の行動を厳しく批判した。また、圓楽の惣領弟子である[[三遊亭鳳楽]]による7代目圓生襲名の話についても、自分が圓生を襲名すべきだと主張。公演で落語を演ずることで7代目圓生にふさわしい者を決めようと対決し、その後は[[三遊亭圓窓]]の参戦もあったが、7代目はいずれも継ぐことなく収束した(参照:[[三遊亭圓生#7代目圓生襲名問題]])。その後も圓楽の一門とは特段の交流はなかったが、[[2013年]]の円丈の新著「落語家の通信簿」について[[三遊亭圓楽 (6代目)|6代目圓楽]]から誤認についての指摘を受けて増刷時に修正したのを機に意気投合し[[2014年]]3月より合同落語会「さんゆう(三遊)の雪解ゆきどの会」を開催していこととなった<ref>[{{Cite news |title=円生一門わだかまり越えた…3月に「三遊ゆきどけの会」 |newspaper=読売新聞 |date=2014-02-06|url=http://www.yomiuri.co.jp/entertainmentculture/stage/trad/2013120920140206-OYT8T00550OYT8T00579.htmhtml 円丈、円楽「さんゆうの雪解け」] YOMIURI ONLINE 2013年12月16日閲覧|accessdate=2014-10-21}}</ref>。
 
多趣味でも知られ、その一つに[[狛犬]]の研究がある。[[1996年]]には日本参道狛犬研究会を設立した。