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[[元治]]元年([[1864年]])[[江戸]]市中警護の功により2万7千石を加増され石高は16万7千石に達した。
 
幕末慶応3年12月([[1868年]]1月)、[[上山藩]]などとともに[[江戸薩摩藩邸の焼討事件|江戸薩摩藩邸への討ち入り]]を起こし命ぜられ実行戊辰戦争の口火を切るとともに、後に明治政府軍による徳川家武力討伐の口実を作や、奥羽鎮撫総督による庄内藩攻撃の口実ともなった([[戊辰戦争#東北戦争]])
 
[[1868年]]の[[戊辰戦争]]では、[[1867年]]、松平権十郎を中心とする派閥が公武合体派を攻撃し、逮捕投獄による藩論の統一を経て、[[会津藩]]とともに[[奥羽越列藩同盟]]の中心勢力の一つとなった。但し、奥羽越列藩同盟は会津、庄内の謝罪嘆願を目的としたものであったため、正確には両藩は加盟していない(会津藩と庄内藩で会庄同盟が締結された)。戊辰戦争では、明治政府に与した[[新庄藩]]、[[久保田藩]]領内へ侵攻。当時日本一の大地主と言われ庄内藩を財政的に支えた商人[[本間家]]の莫大な献金を元に商人[[スネル兄弟|エドワード・スネル]]からスナイドル銃など最新式兵器を購入。清川口では攻め入る明治政府軍を撃退。その後に新庄を落とし、内陸、沿岸から秋田へ攻め入った庄内軍は中老[[酒井玄蕃]]率いる二番大隊を中心に連戦連勝、明治政府軍を圧倒した。内陸では[[横手城]]を陥落させた後さらに北進、[[久保田城]]へ迫ったが、新政府側が秋田戦線へアームストロング砲やスペンサー銃等の最新兵器で武装した[[佐賀藩]](正確には佐賀藩内の[[鍋島茂昌#戊辰戦争への出征|武雄鍋島家]])の兵力を援軍として投入したため、戦線は旧藩境付近まで押し戻されて膠着状態となった。