「島津義虎」の版間の差分

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| 兄弟 ='''義虎'''、[[三葉忠継]]
| 妻 = 正室:'''[[於平]]'''([[島津義久]]の娘)
| 子 = '''[[島津忠辰|忠辰]]'''、[[島津忠隣|忠隣]]、[[島津忠清#島津義虎の子・忠清|忠清]]、[[島津忠栄|忠栄]]、[[入来院重高|忠富]]、[[島津忠豊 (薩州家)|忠豊]]、</br>
娘([[志岐親弘]]室)
| 特記事項 =
}}
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父・実久は薩摩国の[[守護]]職の座を巡り、[[伊作家]]の[[島津忠良]]・[[島津貴久|貴久]]親子と対立したが、義虎は逆に従う姿勢をみせていた。実久が忠良親子に敗れ出水にて隠棲すると、[[島津義久]]の長女・[[於平]]を妻とすることにより和解を図り、以後臣従した。
 
一方で、島津宗家を継いだ伊作家へ臣従後も、しばしば独自とみられる行動をとることがあった。[[永禄]]6年([[1563年]])には上洛して13代将軍・[[足利義輝]](義晴の子)に拝謁、重ねて一字拝領し、この頃に名乗っていた陽久から'''義俊'''(よしとし)、更には'''義虎'''へと改名している。また、東郷の領主である[[東郷重治]](大和守)とは、義虎の家臣である[[湯田成重|湯田兵庫成重]]の秘蔵の飼犬が盗まれた事に端を発す諍いにより、[[天文 (日本)|天文]]16年([[1547年]])から約20年間争っており、たびたび合戦を繰り返した。更に永禄8年([[1565年]])3月には叔父の[[島津忠兼 (薩州家)|島津忠兼]]に[[肥後国]]天草の[[長島 (鹿児島県)|長島]]攻略を命じている。これは天文23年([[1554年]])に[[相良晴広]]により長島を追われた[[長島鎮真]]を庇護していたことが背景にあり鎮真に代わって長島領主となっていた[[天草越前守]]を攻め殺して、長島を薩州島津家の領有としている(なお、義虎は同7月8日には忠兼を謀殺している)。
 
永禄10年([[1567年]])より[[羽月城]]を守備、[[相良氏|肥後相良氏]]の備えについた。永禄12年([[1569年]])、相良氏が島津方の和睦の使者を殺害し、[[菱刈氏]]との連合軍が挙兵すると、義虎は詰めていた羽月城を退去し、本領の出水へ退却したため義久の怒りを買っている。その後、[[天正]]6年([[1578年]])の[[耳川の戦い|高城川の戦い]]の際には[[大友氏]]に呼応する相良氏への備えとして、[[出水城]]を守った。天正9年([[1581年]])には相良氏討伐の先鋒となり遂に相良氏を下した。