「ペルティナクス」の版間の差分

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===皇帝即位後===
ペルティナクス帝の僅かな統治間(86日間)は常に政治的な問題に直面し続けた。ペルティナクスの統治について、[[エドワード・ギボン|ギボン]]はアウレリウス帝時代の禁欲的な文化政策と緊縮財政を目標としていたようだと考察している<ref>Gibbon, Ch. 4</ref>。だが急激な改革は議会から多大な反発を受ける事に繋がった<ref>Gibbon, Ch. 4</ref>。また皇帝即位時の慣例であった[[ドナティブム]](近衛隊に対する特別給金)を行わないなど支持基盤である近衛兵隊を冷遇し<ref>Dio, 74:8</ref><ref>Zosimus, 1:8</ref><ref>Bowman, pg. 2</ref>、ラエトゥスとの関係までも冷却化させてしまった。
 
焦ったペルティナクス帝は先帝であるコンモドゥス帝の遺産の一部(妾マルキアの邸宅を含む<ref>Dio, 74:5</ref><ref>Historia Augusta, Pertinax, 7:8</ref>)を没収して、ドナティブム用の資金作りに奔走している<ref>Bowman, pg. 2</ref>。しかし反ペルティナクス派は帝国の支配者層で確固たる勢力となっており、早くも3月にはオスティア港訪問中に暗殺未遂事件が発生している<ref>Dio, 74:8</ref>。首謀者は執政官クィントゥス・ソシウス・ファルコを即位させようとする反ペルティナクス派の元老院議員達で、ペルティナクスはソシウスは恩赦しつつも反ペルティナクス派議員の処刑を行った<ref>Historia Augusta, Pertinax, 10:4</ref>。この一件で元老院とペルティナクス帝の不和も決定的となった。