「グレート・ノーザン鉄道」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
ひななみ (会話 | 投稿記録)
m 内部リンク修正
Frozen-mikan (会話 | 投稿記録)
52行目:
[[1867年]]に[[カナダ]]が独立を果たした。当時のカナダ西部はアメリカ西部と結びついており、カナダの東西を結びつける必要があるかどうかは議論の分かれるところであった。前者のままでよいならばカナダを横断する鉄道は必要なく、必要に応じてアメリカの鉄道網を利用すればよい。後者を推進するならばカナダは自前で横断鉄道を建設する必要があるが、土地の起伏や気象条件などから困難が予想された。[[ジェームズ・ウィックス・テイラー]]([[:en:James Wickes Taylor|James Wickes Taylor]])は、カナダの鉄道網にファースト・ディビジョンを組み込むことを提言した。これを「国際鉄道構想」(International Railway)という。
 
アメリカ側では、[[ワシントン準州]]知事であった[[イザク・スティーブンス]]([[:en:Isaac Stevens|Isaac Stevens]])が、北部の大陸横断ルートである[[ノーザン・パシフィック鉄道]](NP)の特許を[[1864年]][[7月2日]]に得た。NPの一部には、ファースト・ディビジョンを組み込む構想もあったが、資金調達に難航し、起工したのは[[1870年]]2月であった。同年7月には、NPはStP&Pの株式の3分の2を取得して、同年末にはファースト・ディビジョンがNPの子会社となる。複雑な金融資本のしがらみから、NP、StP&P、ファースト・ディビジョンの三鉄道は合併はしていない<ref>当時は現在のような株式の持ち方での親会社・子会社という概念は薄く、会社の支配関係は資本家同士の支配関係が色濃く出るものであった。
</ref>。なお、NPが太平洋岸までの建設を終了したのは[[1883年]]である。
 
58行目:
前述のように、資金難にも関わらずにファースト・ディビジョンが鉄道建設を進めた結果、その資金となる社債販売を請け負っていた[[ジェイ・クック|ジェイ・クック商会]]が破産した。クックはほかにも経営難の鉄道を抱えており、双方に私財を投入しすぎたのである。
 
この破産をきっかけにして[[1873年恐慌]]([[:en:Panic of 1873|Panic of 1873]])が起こる。多数の鉄道が倒産し、StP&Pも倒産した。NPはかろうじて倒産を免れた。StP&Pは、前述の通り強いしがらみの中にあり、将来的な展望が開けない状況にあったが、この倒産劇は、ファースト・ディビジョンを利用する荷主であったジェームズ・ヒルにとっては絶好の機会であった。3年間、ヒルはStP&Pを徹底的に調べると、StP&Pは初期投資さえすれば、利益を生み出せる鉄道であるとの結論に達した。ヒルは[[ノーマン・キットソン]]([[:en:Norman Kittson|Norman Kittson]])、[[ドナルド・スミス]]([[:en:Donald Smith|Donald Smith]])、[[ジョージ・スティーブン]]([[:en:George Stephen, 1st Baron Mount Stephen|George Stephen]])らと組んだ。彼らはStP&Pを購入し、取締役に収まっただけではなく、線路通行権をNPに安価で提供し、相当な距離の路線の延長も果たした。[[1879年]]5月、ヒルら四人はStP&Pを清算、改組し、'''セント・ポール・ミネアポリス・アンド・マニトバ鉄道'''(St.Paul,Minneapolis & Manitoba Railway、略称StPM&M、通称'''マニトバ鉄道''')を設立した。ヒルは最初の目標を鉄道の延伸と改良に定めた。[[1882年]]、ヒルはマニトバ鉄道の社長に就任した。
<!--
スティーブンは[[1881年]]に設立された[[カナダ太平洋鉄道]](CPR)の社長となった。ヒル、ケネディもCPRの役員となった。マニトバ鉄道の経営陣には、スミスの代わりに[[ジョン・スチュワート・ケネディ]]([[:en:John Stewart Kennedy|John Stewart Kennedy]])が加入した-->