「グレート・ノーザン鉄道」の版間の差分

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== 概要 ==
<!-- [[画像:Locomotive Great Northern Railway (US).JPG|300px|right|GNのディーゼル機関車、[[エレクトロ・モーティブ・ディーゼル|EMD]]製[[EMD Fシリーズ|F7]]]] -->
[[ミネソタ州]][[セントポール (ミネソタ州)|セントポール]]と[[ワシントン州]][[シアトル]]とを結ぶ本線など、アメリカ北部を中心に1,700[[マイル]](2,736[[キロメートル|km]])以上の路線を伸ばしていた。[[ジェームズ・ジェローム・ヒル]](James J. Hill)により最北の[[大陸横断鉄道]]として建設が行われ、[[1893年]]に全通した。同年の[[1893年恐慌|恐慌]]([[:en:Panic(Panic of 1893|Panic of 1893]])1893)で倒産しなかった数少ない鉄道である。
 
[[日本郵船]]とも提携し、シアトルから[[横浜港|横浜]]・[[香港]]へ定期航路を就航したこともある(後に[[独占禁止法]]の影響で撤退)。[[1970年代]]の私鉄業界の再編に伴い、[[シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道]](CB&Q)、[[ノーザン・パシフィック鉄道]](NP)、[[スポケーン・ポートランド・アンド・シアトル鉄道]](SP&S)と合併し、[[バーリントン・ノーザン鉄道]](BN)となったが、その後更に[[アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道]](ATSF)と合併して現在の[[BNSF鉄道]]となり、大陸横断の貨物輸送事業などを担う鉄道会社として経営が続けられている。
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前述のように、資金難にも関わらずにファースト・ディビジョンが鉄道建設を進めた結果、その資金となる社債販売を請け負っていた[[ジェイ・クック|ジェイ・クック商会]]が破産した。クックはほかにも経営難の鉄道を抱えており、双方に私財を投入しすぎたのである。
 
この破産をきっかけにして[[1873年恐慌]](Panic of 1873)が起こる。多数の鉄道が倒産し、StP&Pも倒産した。NPはかろうじて倒産を免れた。StP&Pは、前述の通り強いしがらみの中にあり、将来的な展望が開けない状況にあったが、この倒産劇は、ファースト・ディビジョンを利用する荷主であったジェームズ・ヒルにとっては絶好の機会であった。3年間、ヒルはStP&Pを徹底的に調べると、StP&Pは初期投資さえすれば、利益を生み出せる鉄道であるとの結論に達した。ヒルは[[ノーマン・キットソン]]([[:en:Norman Kittson|Norman Kittson]])、[[ドナルド・スミス]]([[:en:Donald Smith|Donald Smith]])、[[ジョージ・スティーブン]]([[:en:George Stephen, 1st Baron Mount Stephen|George Stephen]])らと組んだ。彼らはStP&Pを購入し、取締役に収まっただけではなく、線路通行権をNPに安価で提供し、相当な距離の路線の延長も果たした。[[1879年]]5月、ヒルら四人はStP&Pを清算、改組し、'''セント・ポール・ミネアポリス・アンド・マニトバ鉄道'''(St.Paul,Minneapolis & Manitoba Railway、略称StPM&M、通称'''マニトバ鉄道''')を設立した。ヒルは最初の目標を鉄道の延伸と改良に定めた。[[1882年]]、ヒルはマニトバ鉄道の社長に就任した。
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スティーブンは[[1881年]]に設立された[[カナダ太平洋鉄道]](CPR)の社長となった。ヒル、ケネディもCPRの役員となった。マニトバ鉄道の経営陣には、スミスの代わりに[[ジョン・スチュワート・ケネディ]]([[:en:John Stewart Kennedy|John Stewart Kennedy]])が加入した-->