「関東郡代」の版間の差分

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=== 幕末の「関東郡代」 ===
関東郡代の廃止後、[[関八州見廻役]]や[[関東取締出役]]などを設置して対応しようとしたが、幕末期の不穏な社会情勢に対応するのには不十分であった。[[文久の改革]]以後、関東支配の立て直し策の議論が行われていたが、[[1864年]]([[元治]]元年)の[[天狗党の乱]]によって関東地方の中心部が戦場となったことが幕府に衝撃を与えた。同年11月に関東郡代が再び設置された。関東郡代の定員は4名で関八州のうち2か国ずつを管轄・支配した。原則として現地の陣屋にて職務を行うため、以前のように勘定奉行との兼務は取られなかった。また、管轄する国に関しては幕府直轄領以外の旗本領や寺社領などに対しても訴訟や治安維持に関する権限を行使することが可能であり、更に新田開発や治水灌漑、酒造制限・生糸改印などの民政・経済政策に関する権限も強かった。関東郡代の下には組頭以下の属僚が設置され、更に8名いた関東代官は全て郡代付とされた。将来は関東代官を廃止して関東郡代による関東地方の広域・直接支配を意図していたとみられているが、設置当初から定員1名を欠き、その後も人事異動や将軍上洛の御供などによって4名全員が現地で職務にあたることはなかった。そのため1867年([[慶応]]3年)1月になって26日、改めて関八州を2分し[[関東在方掛]]を設置して、関東郡代であった[[木村勝教]]・[[河津祐邦]]を横滑りさせた。同年2月5日に関東郡代は正式に廃止された。
 
== 関東郡代の一覧 ==