「神八井耳命」の版間の差分

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整理。記紀の記述と地方神社の伝承との同列併記を改める。
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| 役職 =
}}--><!--情報量が少なすぎ、不要-->
'''神八井耳命'''(かんやいみみのみこと{{Sfn|神八井耳命(古代氏族)|2010年}}、生年不詳 - [[綏靖天皇]]4年4月<!--[[Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間]]に基づき、西暦表記は記載しない-->)は、[[記紀]]等に記され伝わる古代[[日本]]の[[皇族]]。
 
初代[[神武天皇]]の[[皇子]]で、[[多氏|多臣(多氏)]]及びその同族の祖とされる。
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{{familytree/end}}
</div></div>
{{smaller|(名称は『日本書紀』初出を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)}}
 
『[[日本書紀]]』『[[古事記]]』によれば、初代[[神武天皇]]と、[[事代主|事代主神]]の娘(または[[大物主|大物主神]]の娘)の[[媛蹈鞴五十鈴媛命]](ひめたたらいすずひめのみこと、伊須気余理比売命)との間に生まれた[[皇子]]である{{Sfn|神八井耳命(古代氏族)|2010年}}。
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== 記録 ==
『[[日本書紀]]』綏靖天皇即位前紀によれば、朝政の経験に長けていた庶兄の[[タギシミミの反逆|手研耳命]](たぎしみみのみこと)は、皇位に就くため弟の神八井耳・神渟名川耳を害そうとした。この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、[[己卯]]年<ref>己卯年は神武天皇崩御年(神武天皇76年:[[丙子]]年)の3年後、綏靖天皇即位年([[庚辰]]年)の前年にあたる。</ref>11月に片丘([[奈良県]][[北葛城郡]][[王寺町]]・[[香芝町]]・[[上牧町]]付近か{{Sfn|手研耳命(古代氏族)|2010年}})の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じ、弟に皇位をすすめ(第2代[[綏靖天皇]])、自分は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。そして綏靖天皇4年4月に死去したという{{Sfn|神八井耳命(古代氏族)|2010年}}{{Sfn|手研耳命(古代氏族)|2010年}}。
 
『[[古事記]]』においても同様の説話が記されている。
 
== 墓・霊廟 ==
墓は不詳。『日本書紀』では、神八井耳命は「畝傍山北」に葬られたと記されている{{Sfn|神八井耳命(古代氏族)|2010年}}。[[畝傍山]]の北に所在する[[八幡神社 (橿原市)|八幡神社]]([[奈良県]][[橿原市]]山本町)社伝では、同社は神八井耳命の墓の所在地で、古くは「八井神社」と称されたというする
 
また[[多氏]]の[[氏神]]社である[[多坐弥志理都比古神社]]([[奈良県]][[磯城郡]][[田原本町]])を始めとする諸社で、命の霊が祀られている。<!--特筆性を有する神社に限る-->
 
== 後裔 ==
=== 氏族 ===
『[[日本書紀]]』では、神八井耳命について多臣([[多氏]])の祖と記している{{Sfn|神八井耳命(古代氏族)|2010年}}。
 
また『古事記』では、意富臣([[多氏]])・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・[[伊余国造]]・[[科野国造]]・[[石城国造|道奥石城国造]]・[[仲国造|常道仲国造]]・[[長狭国造]]・伊勢船木直・尾張丹羽臣・嶋田臣ら19氏の祖とする{{Sfn|神八井耳命(古代氏族)|2010年}}。