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ミュールベルクの戦い
== 戦闘の経緯 ==
プロテスタント軍はザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ指揮下の約
その間にカール5世軍のスペイン人部隊が一部は泳いで、一部は浅瀬から広い河を横断していた。そして戦闘が始まった。わずかな選帝侯側の監視部隊は戦闘しながら陣営へ退却した。選帝侯ヨハン・フリードリヒは、小規模な自軍がカトリック軍の
ファルケンベルクの森でスペインとハンガリーの軽騎兵はナポリの重騎兵と協力して選帝侯を包囲した。選帝侯は抵抗し勇敢に戦ったが、顔面にサーベルを受け負傷し、捕虜となり、まずアルバ公のもとへ、最後には皇帝の下へ引き立てられた。
== 戦闘の結果 ==
* ミュールベルクでの敗北はシュマルカルデン同盟の終わりを意味していた。ヴィッテンベルク降伏条約が
* ヨハン・フリードリヒは選帝侯位を失い、領土の大部分をカール5世と結んだザクセン公モーリッツに割譲された。[[エルネスティン家]]にはテューリンゲンの所領のみが残された。(ナウムブルク条約)
* エルネスティン家と[[アルベルティン家]]との間で最終的な貨幣の分離が行われた。ライプツィヒの主立った場所で
* いわゆる武装したアウクスブルクの帝国議会で劣勢のプロテスタント諸侯と諸身分は[[アウクスブルク仮信条協定]]を一方的に押しつけられることになった。
* ボヘミア王[[フェルディナント1世_(神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]は、ドイツのプロテスタント軍に対して兄カールに援軍を送っていたが、自分に向けられたボヘミアの諸身分の反乱鎮圧のために自由に動くことが可能になった。
* フェルディナントは自分に従わないオーバーラウジッツの諸都市を罰し、徴募期間終了後の
* 選帝侯軍によって占領されたドブラルク修道院領は再びニーダーラウジッツに併合された。
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