「サーサーン朝」の版間の差分

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=== 滅亡 ===
[[File:Persia 600ad.jpg|thumb|280px|right|600年前後のサーサーン朝周辺]]
ホスロー1世の死後、息子の{{仮リンク|ホルミズド4世|en|Hormizd IV}}が即位。[[590年]]にクーデターに遭い、両目を潰された後、処刑された。跡を継いでホルミズド4世の息子{{仮リンク|ホスロー2世|en|Khosrau II}}が即位したが、東方で{{仮リンク|バフラーム・チョービーン|en|Bahrām Chobin}}の反乱が発生したためホスロー2世は東ローマ国境付近まで逃走し、王位は簒奪された。ユスティニアヌス朝の[[マウリキウス]]の援助を得て反乱を鎮圧したが、[[602年]]に当のユスティニアヌス朝で政変が起こりマウリキウスが殺され[[フォカス]]が帝位を僭称すると、仇討を掲げて攻め({{仮リンク|[[ビザンチン・サーサーン戦争 (602年-628年)|ビザンチン・サーサーン戦争]]([[:en|:Byzantine–Sassanid War of 602–628}}|en]]を開始、フォカスは初戦で大勝を収めた。東ローマ帝国ではが、[[610年]]に[[ヘラクレイオス]]がフォカのクーデターで殺害されヘラクレイオを倒して皇帝位に即き、[[ヘラクレイオス王朝|ヘラクレイオス朝]]を興していた。
 
連年のホスロー2世率いるサーサーン朝軍の侵攻によって、ヘラクレイオスは即位直後から劣勢となり、[[613年]]にはシリアの[[ダマスス]]、{{仮リンク|アンティオキアの戦い (613年)|en|Battle of Antioch (613)|label=シリア}}、翌[[614年]]には聖地[[エルサレム]]が陥落し({{仮リンク|エルサレム包囲戦 (614年)|en|Siege of Jerusalem (614)|label=エルサレム包囲戦}})このとき[[エルサレム]]から「[[聖十字架|真なる十字架]]」を持ち帰ったという。
 
[[615年]]に{{仮リンク|サーサーン朝のエジプト征服|en|Sassanid conquest of Egypt|label=エジプト征服}}が始まり、[[619年]]に{{仮リンク|第二次ペルソ・テュルク戦争|en|Second Perso-Turkic War}}が起こった。[[621年]]にサーサーン朝は[[アエギュプトゥス|エジプト]]全土を占領し、[[アナトリア]]を占領、アケメネス朝の旧領域を支配地に組み入れた。一時はコンスタンティノープルも包囲し、ヘラクレイオス自身も故地[[カルタゴ]]まで逃亡を計ろうとした。
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しかし、[[622年]]に{{仮リンク|カッパドキアの戦い (622年)|en|Heraclius' campaign of 622|label=カッパドキアの戦い}}でヘラクレイオスが反撃へ転じ、被占領地を避け黒海東南部沿岸から直接中枢部イラクへ侵入した。サーサーン朝は[[アヴァール]]と共同でヘラクレイオス不在の首都[[コンスタンティノポリス]]を包囲し、呼応して{{仮リンク|第三次ペルソ・テュルク戦争|en|Third Perso-Turkic War}}も起こったが、コンスタンティノポリスでは撃退される({{仮リンク|コンスタンティノープル包囲戦 (626年)|en|Siege of Constantinople (626)|label=コンスタンティノープル包囲戦}})。
 
[[627年]]、ヘラクレイオスの[[親征|親卒]]する東ローマ軍がクテシフォン近郊へ侵攻({{仮リンク|ニネヴェの戦い (627年)|en|Battle of Nineveh (627)|label=ニネヴェの戦い}})、ホスロー2世の長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いていた結果、翌[[628年]]にクテシフォンで反乱が起こりホスロー2世は息子の{{仮リンク|カワード2世|en|Kavadh II}}に裏切られ殺された。
 
[[File:Cherub plaque Louvre MRR245 n2.jpg|thumb|280px|right|{{仮リンク|ホスロー2世|en|Khosrau II}}を屈服させるヘラクレイオス1世。(十字架に描かれた七宝製画像。12世紀後半)]]
 
カワード2世は即位するとヘラクレイオス朝との関係修復のため聖十字架を返還したが、程なくして病死。王位継承の内戦が発生した。長期に渡る混乱の末、29代目で最後の王となる[[ヤズデギルド3世]]が即位したが、サーサーン朝の国力は内乱やイラク南部における[[チグリス川|ディジュラ]]・[[ユーフラテス川|フラート河]]とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失(湿地化の進行)により消耗していた。そこに新興宗教[[イスラム教]]が勃興しサーサーン朝は最期の時を迎えることになる
 
[[アラビア半島]]に勃興した[[イスラム帝国|イスラム共同体]]勢力を拡大東ローマ領に続きサーサーン領へ侵入し始める。[[633年]]に[[ハーリド・イブン=アル=ワリード]]率いるイスラム軍がイラク南部のサワード地方に侵攻([[イスラーム教徒のペルシア征服]])、現地のサーサーン軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。その後、翌[[634年]]にハーリドがシリア戦線に去ると、イスラム軍は統率を失い、進撃は停滞、ヤズデギルド3世は各所でこれらを破り、一時、サーサーン朝によるイラク防衛は成功するかに見えた<ref>後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、pp.46-47</ref>。しかし、同年の[[アブーバクル]]の死による[[カリフ]]([[正統カリフ]])の[[ウマル・イブン・ハッターブ]]への交代と共に、ペルシア戦線におけるイスラム軍の指揮系統は一新され、[[636年]]{{仮リンク|カーディスィーヤの戦い|en|Battle of al-Qādisiyyah}}で敗北、首都クテシフォンが包囲されるに及んでヤズデギルド3世は陥落前に逃亡、サーサーン朝の領国では飢饉や疫病が蔓延していたという。クテシフォンの北東にあったジャルーラーウでザグロス山脈周辺から軍を召集して反撃を試みたが、イスラム軍の攻撃を受け大敗した。
 
[[641年]]にヤズデギルド3世は{{仮リンク|レイ (イラン)|en|Rey, Iran|label=ライ}}、{{仮リンク|シャールザー|en|Shahreza|label=クーミス}}、[[エスファハーン]]、[[ハマダーン]]などイラン高原西部から兵を徴集して6万とも10万とも言われる大軍を編成、対して[[するウマル]]も軍営都市の[[バスラ]][[クーファ]]から軍勢を招集する。[[642年]]に[[ニハーヴァンドの戦い]]でサーサーン軍とイスラム軍は会戦、サーサーン軍は敗れた。敗戦後エスファハーンからパールス州のイスタフルへ逃れたが、エスファハーンも[[643年]]から[[644年]]にかけてイスラム軍に制圧された。ヤズデギルド3世は再起を計って東方へ逃れ[[ケルマーン]]や[[スィースターン]]へ赴くが、現地辺境総督(マルズバーン)の反感を買って北へ逃れざるを得なくなり[[ホラーサーン]]の[[メルヴ]]へ逃れた。しかし、[[651年]]にヤズデギルド3世はメルヴ総督のマーフワイフの裏切りにより殺害され、サーサーン朝は断絶した。国の東方に遠征駐屯していた王子ペーローズとその軍はその地に留まり反撃の機会を窺い、さらに東方の[[唐]]の助勢を求め、自らが首都の[[長安]]まで赴いたりもしたが、上手く行かずに終息した。
 
サーサーン朝の滅亡は、ムスリムにとってはイスラーム共同体が世界帝国へ発展していく契機となった栄光の歴史として記憶されている。
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== 年表 ==
* [[208年]] {{仮リンク|バーバク|fr|Papak}}が[[ファールス州|パールス地方]]を統一。サーサーン朝の基礎を起こす。
* [[226年]] [[アルダシール1世]]が[[パルティア]](アルサケス朝)を滅ぼし、イラン・[[イラク]]を統一。
* [[240年]]頃 [[シャープール1世]]、[[クシャーナ]]に遠征し、[[ガンダーラ]]を奪う。
* [[260年]] [[シャープール1世]]、エデッサの戦いで[[ローマ軍]]と戦い、[[ウァレリアヌス]]を捕える。
* [[350年]]頃[[シャープール2世]]、[[クシャーナ]]を破り、再度征服。
* [[363年]] [[シャープール2世]]、[[ユリアヌス]]を敗死させる。
* [[409年]] [[キリスト教]]寛容令。
* [[425年]] [[エフタル]]の侵入。
* [[428年]] [[アルメニア王国]]を廃絶し、サーサーン朝の知事を置く。
* [[484年]] {{仮リンク|ペーローズ1世|en|Peroz I}}、 [[エフタル]]との戦いで戦死。
* [[540年]] [[ホスロー1世]]、[[アンティオキア]]を占領。
* [[567年]] [[ホスロー1世]][[エフタル]]を滅ぼす。
* [[575年]] [[ホスロー1世]]、[[イエメン]]を占領。
* [[616年]] {{仮リンク|ホスロー2世|en|Khosrau II}}、[[東ローマ帝国|東ローマ]]領の[[歴史的シリア|シリア]]、[[エジプト]]を占領。
* [[626627年]] 東ローマ・[[ヘラクレイオス王朝|ヘラクレイオス朝]]の[[ヘラクレイオス]]がクテシフォンへ侵攻、占領地{{仮リンク|ニネヴェの戦い (627年)|en|Battle of Nineveh (627)|label=ニネヴェの戦い}}で敗北奪回され喫する。
* [[637628年]] カディシ:ホスロ2世暗殺、息子戦いで{{仮リンク|カワード2世|en|Kavadh II}}はヘラクレラーム軍に敗れと和睦[[クテシフォン]]を占領地を奪回される。
* [[642637年]] ハマダ:カディシン近く戦いでイスラム軍に敗れ、[[ニハーヴァクテシフォ]]の戦いで敗北を占領される
* [[642年]]:ハマダーン近くの[[ニハーヴァンドの戦い]]で敗北。
* [[651年]] [[ヤズデギルド3世]]逃亡先で暗殺され、サーサーン朝滅亡。
 
== 歴代君主 ==