「シビーユ (エルサレム女王)」の版間の差分

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現実的なところでは、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]][[ユーグ3世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ3世]]に断られた後、[[トリポリ伯国|トリポリ伯]][[レーモン3世]]と[[アンティオキア公国|アンティオキア公]][[ボエモン3世 (アンティオキア公)|ボエモン3世]]はボードゥアン・ド・イベリンを推したが、ヨーロッパからの援助を期待していたボードゥアン4世が、[[プランタジネット朝]]の臣下だった[[リュジニャン家]]を選んだと考えられる。シビーユとギーとの間には2人の娘が生まれている。
 
ボードゥアン4世は、[[1180年]]にギーを摂政に任命したが、その能力に疑問を持ち、[[1183年]]にシビーユ夫妻の継承権を奪って5歳のボードゥアン5世を共同王にするとともに、ギーを摂政から解任し代わりにレモン3世を摂政とした。
 
[[1185年]]にボードゥアン4世が亡くなるとシビーユの息子ボードゥアン5世が跡を継いだが、病弱で即位後1年で亡くなり、再び後継争いが再燃した。シビーユの母アニエスの婚姻は無効とされているため、シビーユより妹のイザベルの方が正当な後継者であるという考えがあった。