「長岡山の戦い」の版間の差分

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[[桑名藩]]主の[[松平定敬]]率いる桑名兵の[[京都所司代]]と、兄の[[会津藩]]主の[[松平容保]]率いる会津兵の[[京都守護職]]の両藩兵が幕末の動乱にあった京都の警護に当たっていた。[[大政奉還]]で徳川政権が倒れると、両藩はその任を解かれて帰藩を命じられた。しかし、桑名城は薩摩長州軍に包囲されていたので、帰ることができず、会津藩を頼り、海路で越後に行き、4月27日に柏崎に上陸し、[[会津戦争]]に加勢した。定敬は会津と運命を共にしようとしたが、容保がそれを許さなかったので、定敬は[[函館]]に向かった。藩兵は庄内軍を頼って北上した。
 
米沢藩がすでに降伏していたので、庄内軍が[[出羽国]][[寒河江]]を警護していると聞いて、合流するために[[町田老之丞]]、[[立見鑑三郎]]の率いる桑名本隊は、8月25日、[[塩川]]を出発した。
 
途中、[[福島城]]にいた桑名藩主松平定敬に会うために[[米沢市|米沢]]に向かおうとしたが、米沢藩はすでに降伏しており、鎮撫軍が峠を厳重に警備していたので、変更して福島城に向かい、27日に[[大塩]]と[[檜原]]に分宿した。9月9日に[[土湯峠]]を越えて、11日夜福島城下につくと、藩主には一歩違いで会えなかった。
 
福島城で、庄内藩士[[中村七郎右衛門]]隊と再開して合流する。共に、鎮撫軍と戦うために庄内藩が進出していた寒河江に向かって13日に[[福島市|福島]]を出発する。[[笹谷峠]]を越えて、16日に[[山形城]]に着く。さらに、山形街道を北上して、寒河江に着く。庄内藩は三番、五番銃隊、桑名隊は[[神風隊]]を[[左沢]]([[西村山郡]][[大江町]][[左沢]])に分遣して、寒河江に桑名藩のうち、[[雷神隊]]、[[致人隊]]の二隊が残った。4小隊合計約300人が寒河江に宿営していた。
 
===寒河江での戦闘===
一方、9月18日朝、藩主[[上杉茂憲]]率いる[[米沢藩]]兵を先鋒とした[[西郷隆盛]]率いる新政府軍(参謀[[黒田清隆]])が[[鶴岡城]]攻略のために出発した。9月20日に朝を迎えた。その日は、濃霧が町覆って視界不良の状態であった。桑名藩と庄内藩は朝食の最中に、新政府軍に急襲された。
 
土地勘がある庄内藩は、すぐに西北の[[長岡山]]に引き上げた。そして、桑名藩は立見鑑三郎の指揮で沼川沿いに陣を敷いたが、圧倒的な新政府軍の攻撃に損害が増加し、霧の中で唯一見える長岡山に兵を引きあげた。そして、庄内隊と桑名隊が合流して、守備戦線を築く。霧が晴れると再び猛攻が始まり防衛戦を展開するが、午後になると新政府軍に包囲される。旧幕府軍は新政府軍の包囲網を突破して、さらに西北の白岩(寒河江市白岩)方面に脱出する。ここで、左沢にいた桑名藩の神風隊が援軍に到着して、寒河江川に架かる[[臥龍橋]]をはさんで、2時間ほど銃撃戦を展開した。しかし、退路を断たれることを恐れて、[[十部一峠|銅山越]]の山道を通り、夜間行軍で[[肘折温泉]]([[最上郡]][[大蔵村]]肘折)に引き上げ、庄内藩の領内に逃れた。
 
==庄内藩降伏==
9月19日に庄内藩はすべての前線を引き払って、本国への撤収命令を出していたが、寒河江にいた隊には、指令が届かなかった結果起こった戦闘である。
 
20夜、西郷と黒田は白岩に宿泊して、翌21日に[[慈恩寺 (寒河江市)|慈恩寺]]を通って、谷地に出て宿泊して、22日谷地を出て西部街道を経て、新庄方面に向かった。西郷、黒田たちと分かれた米沢藩を主力とした別隊は、海味(西川町海味)に参謀局(本部)を置き、23日米沢藩、薩摩藩の隊が志津([[西川町]][[志津]])に進軍して、庄内軍と対峙したが、戦闘はなかった。庄内藩に和睦を勧める、米沢藩の使者が行った。
 
23日庄内藩の使者が米沢藩の先導で、海味に来て、参謀局に降伏謝罪の嘆願書謄本を提出して、25日に[[古口]]([[最上郡]][[戸沢村]]古口)の鎮撫軍の本営で参謀黒田清隆に面会し、降伏を申し出た。そして、西郷隆盛と黒田清隆ら鎮撫軍は鶴岡城に入る。
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[[Category:秋田戦争]]
[[Category:寒河江市の歴史]]