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== 歴史 ==
[[File:Mitsumine jinja.jpg|thumb|三峰神社付近略図。1938年]]
社伝によれば、[[景行天皇]]の時、[[ヤマトタケル|日本武尊]]が東征中、[[碓氷峠]]に向かう途中に現在の三峯神社のある山に登って伊弉諾尊・伊弉册尊の国造りを偲んで創建したという。景行天皇の東国巡行の際、天皇は社地を囲む[[白岩山]]・[[妙法山]]・[[雲取山]]の三山を賞でて「三峯宮」の社号を授けたと伝える<ref>[http://www.mitsuminejinja.or.jp/saijin/index.htm 三峯神社~ご祭神・由来~]。</ref>。[[伊豆国]]に流罪になった[[役小角]]が三峰山で修業をし、[[空海]]が観音像を安置したと縁起には伝えられる。
 
三峰の地名と熊野の地名の類似より、三峰の開山に熊野修験が深くかかわっていることがうかがえる。熊野には「大雲取・小雲取」があり、三峰山では中心の山を「雲取山」と呼んでいる。
 
中世以降、[[日光山|日光]]系の[[修験道]]場となって、関東各地の武将の崇敬を受けた。[[養和]]元年(1182年)に、秩父を治めていた[[畠山重忠]]が願文を収めたところ霊験があったとして、[[建久]]6年(1195年)に東は薄郷(現・[[小鹿野町]]両神あたり)から西は[[甲斐]]と隔てる山までの土地を寄進して[[守護不入]]の地として以来、東国武士の信仰を集めて大いに栄えた<ref name=jinja>[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1054145/54 『神社詣で』(埼玉県観光叢書 ; 第1輯) ](埼玉県観光協会, 1938) </ref>。しかし[[正平 (日本)|正平]]7年([[1352年]])、[[足利氏]]を討つために挙兵し敗れた[[新田義興]]・[[新田義宗|義宗]]らが当山に身を潜めたことより、足利氏により社領が奪われて衰退した。
 
[[文亀]]年間([[1501年]]-[[1504年]])に修験者の月観道満によがこの廃寺を知、30数年勧説を続けて[[天文]]2年(1533年)に堂舍再興さ山主の龍栄が[[京都]]の[[聖護院]]に窮状を訴えて「[[大権現]]」を賜った<ref name=jinja/>。以後は聖護院派[[天台宗|天台]]修験の関東総本山とされて隆盛した。本堂を「観音院高雲寺」と称し、「三峯大権現」と呼ばれた。以来、歴代の山主は花山院家の養子となり、寺の僧正になるのを常例としたため、花山院家の紋所の「菖蒲菱(あやめびし)を寺の定紋とした<ref name=jinja/>
 
[[江戸時代]]には、秩父の山中に棲息する[[オオカミ|狼]]を、猪などから農作物を守る[[眷族]]・[[神使]]とし「お犬さま」として崇めるようになった。さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、当社から狼の護符を受けること(御眷属信仰)が流行った。修験者たちが当社の神得を説いて回り、当社に参詣するための[[講]]([[三峯講]])が関東・東北等を中心として信州など各地に組織された。
 
伊奈忠福([[伊奈氏]]はもともと[[関東郡代]]の一族だったが家督争いから一旦名跡取り上げとなり、その後秩父郡の[[小普請]]となった)の代に、土地山林を寺に寄進し、広く村人に信仰を勧め栄えたが<ref name=jinja/>、[[明治]]の[[神仏分離]]により寺院を廃して「三峯神社」に改称した。明治16年(1883年)に[[近代社格制度]]において[[県社]]に列した。明治中期には、社務所に600人が泊まれる施設があり、客のための料理や酒も自家製で賄っていたという<ref>[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801357/32 『埼玉県之産業 : 附・名所旧蹟』 ](埼玉県, 1910)</ref>。[[大正]]末期に[[秩父宮]]が参拝したことをきっかけに信徒が全国的に増え、講社数が増大した<ref name=jinja/>
 
昭和14年(1939年)には、麓から参道に沿って[[三峰ロープウェイ|ケーブルカー]]が山頂まで敷設された(2007年廃止)。平成16年(2004年)に社殿を修復した。
 
== 境内 ==