「モザッファロッディーン・シャー」の版間の差分

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[[画像:MozaffarDinShah.jpg|thumb|250px|モザッファロッディーン]]
'''モザッファロッディーン・シャー'''([[1853年]][[3月25日]] - [[1907年]][[1月7日]]、[[ペルシャ語]]で'''{{lang|fa|مظفرالدين شاه قاجار}}''')は、[[ガージャール朝]]・第5代[[シャー]]。[[1896年]]、父[[ナーセロッディーン・シャー]]が[[暗殺]]されたことによりシャーの座に即位し、ガージャール朝では唯一死ぬまで王位を全うしている。
 
モザッファロッディーン自身は、[[イラン]]映画史における草創期の人物として記録されている。また、彼の晩年には[[イラン立憲革命]]が勃発し、死の病床でイラン憲法の公布に対して署名した。
 
== 生涯 ==
[[ナーセロッディーン・シャー]]の子供として生まれたモザッファロッディーンは、父やその祖父{{仮リンク|アッバース・ミールザー|en|Abbas Mirza}}がそうであったように、[[1861年]]に[[アゼルバイジャン]]総督として赴任した。アゼルバイジャンでの35年間の生活は、快楽を追い求めていたものであり、父ナーセロッディーンとの関係は時折、緊張関係にあった。また、国政にほとんど参与することがなかったため、[[1896年]][[5月1日]]に、父ナーセロッディーンが暗殺され、大宰相{{仮リンク|ミールザー・アリー・アスガル・ハーン・アタベク|en|Mirza Ali Asghar Khan Amin al-Sultan}}の助力のもとでシャーに即位したが、11月にアターバケ・アアザムが辞任、新しい大宰相{{lang|fa|یوسف خان مستشارالدوله}}が就任したが国政の準備がほとんどできていなかった為、[[1898年]][[6月1日]]にアリー・アスガル・ハーン・アタベクが復帰した。
 
モザッファロッディーンは、父がヨーロッパを訪れたのと同様に、3回、ヨーロッパを訪問している。最初の訪問で訪れた[[パリ]]で、「映写機」を紹介されたモザッファロッディーンは、銀幕のとりこになってしまい、自らの写真技師に映画の撮影方法を習得するようにと命令した。このことが[[イランの映画]]の始まりとされている。
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モザッファロッディーンがイランの国政に参画するころには、イラン自体が財政危機に直面していた。国庫の歳入を支出のほうがはるかに上回っていた。一方で、ガージャール朝がこれまでに積み上げてきた負債は[[イギリス]]と[[ロシア]]両国に起因しているものも多かったが、モザッファロッディーンは再びロシアに借款を申し出ることとなった。[[タバコ・ボイコット運動]]以降、イラン国内で政治的関心が高まっていたが、[[1901年]]にイランの[[マスジェデ・ソレイマーン]]で[[石油]]が発見されると、{{仮リンク|ウィリアム・ノックス・ダーシー|en|William Knox D'Arcy|label=ウィリアム・ダーシー}}に与えられた60年間の{{仮リンク|ダーシー利権|en|D'Arcy Concession}}を巡って再び関心が高まる結果を招いた。[[1907年]]の[[英露協商]]で両国間でイランの勢力範囲が定められた。ダーシー利権に基づいて[[1908年]]には{{仮リンク|アングロ・イラニアン石油会社|en|Anglo-Persian Oil Company|label=アングロ・ペルシャン石油会社}}(APOC)が設立された。
 
イランにとって、[[1904年]]は悪夢の年として記録された。全国的な不作や[[コレラ]]の流行、[[日露戦争]]を起因とする[[インフレーション]]の発生が挙げられる。その対策は、関税収入が減収したことによりそれを補完するための増税と無為無策であった。翌年、日本がロシアに勝利すると、経済闘争は深刻化し、年末には、テヘラン市長の更迭、大宰相アリー・アスガル・ハーン・アタベクの罷免、司法改革と[[シャリーア]]の実施を求める声が[[テヘラン]]で上がった。[[1904年]][[1月24日]]に大宰相アリー・アスガル・ハーン・アタベクは辞任した。
 
=== イラン立憲革命 ===
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* ''History of Iranian Photography. Women as Photography Model: Qajar Period'', photographs provided by Bahman Jalali, Iranian Artists' site, [http://www.kargah.com/history_of_iranian_photography/qajarwomen/index.php?other=1 ''Kargah''].
 
{{ガージャール朝の君主}}
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[[Category:ガージャール朝の君主]]