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'''カナモジカイ'''は、仮名文字専用論を唱える[[日本]]の民間団体である。
'''カナモジカイ'''は、[[漢字]]の不便を取り除き[[片仮名|カタカナ]]による[[縦書きと横書き|横書き]]を普及させることを目的に、[[国語政策]]への意見を提出したり、[[雑誌]]『'''カナ ノ ヒカリ'''』を発行したり、[[講演会]]を開いたりしている。現在、[[会長]]はワタナベ サトシ([[渡邊惠]])であり、会員は約150名である。[[事務所]]は[[東京都]][[文京区]]本郷にある。[[財団法人]]カナモジカイとしては[[2013年]]12月に解散したが、その後は任意団体カナモジカイとして活動を行っている。
 
== 概要 ==
'''カナモジカイ'''は、[[漢字]]の不便を取り除き[[片仮名|カタカナ]]による[[縦書きと横書き|横書き]]を普及させることを目的として、[[国語政策]]への[[意見]]を提出したり、[[雑誌]]『'''カナ ノ ヒカリ'''』を発行したり、[[講演会]]を開いたりしている。現在、[[会長]]はワタナベ サトシ([[渡邊惠]])であり、会員は約150名である。[[事務所]]は[[東京都]][[文京区]]本郷にある。[[財団法人]]カナモジカイとしては[[2013年]]12月に[[解散]]たがその後現在は任意団体カナモジカイとして活動を行っている。
 
== 歴史 ==
[[画像:Steps toward horizontal katakana writing.png|thumb|1930年代のカナモジカイの計画。[[漢字制限]]、[[わかち書き]]などの段階をへてカタカナ専用にいたる。『文字文化展覧会出品物解説』p. 68]]
カナモジカイは、[[1920年]](大正9年)[[11月1日]]に[[山下芳太郎]]、[[伊藤忠兵衛 (二代)]]、[[星野行則]]<ref>星野行則(ほしの ゆきのり、[[明治3年]][[8月28日 (旧暦)]]〈グレゴリオ暦[[1870年]][[9月23日]]〉- [[1960年]][[5月1日]])</ref>らによって'''仮名文字協会'''(かなもじきょうかい)として設立された。[[1923年]](大正12年)[[4月1日]]にカナモジカイに改称し、[[1938年]](昭和13年)[[9月28日]]に財団法人となった。
 
仮名文字協会の創立から40年ほどの期間は、国語国字改革がもりあがった期間であり、カナモジカイもまた活発であった。カナモジカイは、政府への建議、講演会、調査研究、新しい表記の実験および実践などによって、この期間におこなわれた[[国語改革]]に役割をはたした。
 
仮名文字協会の創立の翌年、[[1921年]](大正10年)には政府に臨時国語調査会が設けられた。[[1927年]](昭和2年)にはカナモジカイの会員数は1万人を突破した。[[1934年]](昭和9年)[[12月21日]]に文部大臣の諮問機関として[[国語審議会]]が設けられてから[[1961年]](昭和36年)に至るまで、カナモジカイは、星野行則、伊藤忠兵衛、[[松坂忠則]]らを国語審議会の委員として出しつづけた。また、カナモジカイは、[[1948年]](昭和23年)に設けられた[[国立国語研究所]]の評議員も、[[1961年]]に至るまで出しつづけた。
 
カナモジカイは、[[第二次世界大戦]]後、[[三鷹国語研究所]]とともに、国民の[[国語運動連盟]]を結成した。なお、三鷹国語研究所とは、[[山本有三]]が三鷹市の自宅にひらき、[[安藤正次]]が所長をつとめた研究所である。国民の国語運動連盟の代表には安藤正次がつき、連盟の事務局はカナモジカイに置かれた。連盟は国語国字改革、[[日本国憲法]]を含む法令の口語化などをすすめるために運動した(なお、日本国憲法口語化については、国立国会図書館の「日本国憲法の誕生<ref>「[http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/099shoshi.html 口語化憲法草案の発表 | 日本国憲法の誕生]」国立国会図書館</ref>」がある)。
 
[[1961年]]には、[[舟橋聖一]]ら5名が国語審議会の審議のすすめかたに抗議して委員を辞めた。この事件ののち、国語審議会の性格が改められるに至り、カナモジカイを含む国語国字改革推進派は、国語政策への影響力を失っていった。
 
== カナ ノ ヒカリ ==
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『'''カナ ノ ヒカリ'''』は仮名文字協会およびカナモジカイが発行してきた雑誌である。第1号より、左からの横書きおよび改良した活字を使用し、新しい表記および組版の実験をしてきた。
 
『カナ ノ ヒカリ』は[[1922年]](大正11年)22月にはじめて発行されてから、第二次世界大戦の末期と直後の時期を除いて、70年以上のあいだ、毎月発行されてきた。しかしながら、カナモジカイの衰退にともなって、[[1998年]](平成10年)からは2か月に1度の発行となり、[[1999年]](平成11年)からは3か月に1度の発行となった。
 
== 左横書き ==
カナモジカイは、[[1926年]]に、鉄道の駅のなまえを表音式左横書きカタカナとするように建議をした。[[鉄道省]]では、物理学者で[[ローマ字論]]者の[[田中館愛橘]]、眼科医の[[石原忍]]などを集めて研究し、表音式左横書きカタカナの採用を決定した。[[若槻禮次郎]]内閣の[[井上匡四郎]]鉄道大臣は[[1927年]][[4月7日]]に達296号「鉄道掲示例規」を出し、表音式左横書きカタカナの表示がその日からはじまった。
 
ところが、[[4月20日]]に、若槻内閣が倒れて[[田中義一]]内閣が誕生したため、鉄道大臣は[[小川平吉]]にかわった。小川は就任まもない[[5月4日]]、表音式左横書きカタカナの中止を命じた。さらに、[[7月2日]]には達571号「鉄道掲示例規」を出し、[[7月5日]]から従来の右横書きひらがなとすることにした。さらに、[[1929年]][[4月11日]]には、かなづかいも従来のものに戻すことを命じた。
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== 漢字制限 ==
東京市の[[視学]]であり昆虫学者であった[[岡崎常太郎]]<ref>岡崎常太郎(おかざき つねたろう、[[1880年]] - [[1977年]][[5月26日]])</ref>は、1930年に『テンネンショク シャシン コンチュー 700シュ』という、カタカナ書きの図鑑をあらわした人物である。彼は、[[1935年]]ごろ、[[服部報公会]]の援助を得て、漢字制限のための研究をおこなった。
 
まず、東京市の[[尋常小学校]]6年生848名、[[高等小学校]]1年生631名に、尋常小学校6年間で学ぶ1,356字の漢字の書きとりテストを受けさせた。その結果、彼は、義務教育で児童に身につけさせられる字数はおおむね600字であると結論した。