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[[1919年]]、父を[[結核]]で亡くす。このころ、附属中の1年後輩である[[諸井三郎]]を中心とする音楽グループに接近。詩人菊池香一郎(こういちろう)の弟菊池武彦の影響で[[仏文学]]に関心を持つ。[[1920年]]、[[筑波大学附属中学校・高等学校|東京高師附属中学校]]卒業。[[1921年]]まで同校の補習科に通う。
 
[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]理科甲類を二度受験して失敗し、[[1921年]]、[[松本高等学校 (旧制)|旧制松本高等学校]]文科乙類入学。[[ドイツ語]]を第一外国語として学ぶクラスであることに飽き足らず、フランス人神父セスラン(Gustave Cesslin)のもとで[[フランス語]]の個人教授を受ける。
 
[[1925年]]、旧制松本高等学校文科乙類卒業。[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京帝国大学文学部]][[仏文科]]へ入学(無試験)。ボードレールを原語で読むことが仏文進学の目的だった。同期の11人に[[今日出海]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[淀野隆三]]、[[平岡昇]]、[[田辺貞之助]]、[[三好達治]]など。当時助教授だった[[辰野隆]]に師事。